広い視野、そして一段高い視座から
「駄菓子屋」(小林多喜二)
(「百年文庫079 隣」)ポプラ社

「あっつくたら子供にまで馬鹿に
……され……るなんて……」
お婆さんは興奮して泣き出した。
健は何んとも云わずに
内へ入った。
「なあんだ、ちっとも
お客さんがなかったんだなあ……
今朝行ったときと折の中が
そっくりでないか!」…。
お婆さんはなぜ
興奮して泣き出したのか?
昔はそれなりに繁盛した
街の駄菓子屋のお婆さんなのです。
でも、新しくて小綺麗な菓子店が増え、
誰もお婆さんの駄菓子屋で
買い物しないのです。
その日も客を逃しただけでなく、
近所の悪童たちが
冷やかしにきたのですから、
お婆さんの我慢の限界を
超えてしまったのです。
小林多喜二の短篇作品です。
活字が大きく行間の広い百年文庫でも
わずか16頁ですから、
通常の文庫本なら10頁未満でしょう。
大きな展開の変化があるわけでもなく、
お婆さんのやるせない出来事を
追っただけの作品です。
しかしなぜか繰り返し読みたくなる、
滋味豊かな作品なのです。
描かれているのはどうしようのない
「貧しさ」です。
かつては貯金も出来ていたのが、
やがてはそれを切り崩し、
今では質屋に通わなければならない
状況が語られます。
そしてつくればつくるほど
赤字になるのですから、
虚しい気持ちになるのも
仕方ありません。
資金がない以上、
いくつもできた新しい店に対抗する
すべはないのです。
「貧しさ」を描いた作品は、古今東西、
星の数ほどあります。
その中で本作品は、
最後にわずかな希望を見いだせるのが
「滋味」となっているのです。
終末に、
(おそらくは嫁となって家を出た)
娘からの手紙が届くのです。
そこには、
「おっ母さんの今迄の苦しみも
決してそのままに、
無駄になる筈はありません。
……健ちゃんも学校を出れば
すぐ先生になれるでしょう、
そしたらねえ。
……ええ、もう少しですよ。
もう少しの我慢ですよ」。
一方で現代を見てみると、
こうした「希望」が
少ないような気がしてなりません。
子どもが学校を出さえすれば
生活が楽になる、ということは
なかなか考えられないでしょう。
下手をすれば、子どもが就職しても
しばらくは仕送りを続けなければ
ならないケースも多いと聞きます。
生活水準が上がったことも
理由なのでしょうが、
それ以上に若い人たちの収入が
低水準のままであることが
問題なのだと思います。
本作品は、1924年(大正13年)に
発表されました。
大正期の貧しさも、令和の貧しさも、
ともに苦しいものなのですが、
「希望」が見えにくい分だけ、
現代の方が苦しさの度合いが
大きいのかも知れません。
もちろん単純には言えませんが。
さて、1924年発表ですから、
多喜二21歳のときです。
その若さで、実に落ち着いた、
味わい深い文章を
練り上げているのです。
青年がその迸るエネルギーの勢いに
任せて書いたものではありません。
広い視野、そして一段高い視座から
身のまわりを眺め、
達観の境地から書き上げたような
風格が漂っているのです。
本書巻末には、1924年に
「クラルテ」に発表された、とあります。
「クラルテ」とは、
多喜二自身が小樽高等商業学校を
卒業後(北海道拓殖銀行入行後)に
創刊した同人誌なのです。
自ら立ち上げた雑誌で
発表したことになるのです。
ところが、
本作品に関わる資料を探していたら、
面白いものに出会いました。
多喜二は在学中、この「駄菓子屋」を、
他の同人誌「群像」に投稿したものの、
没にされていたというのです
(ここでいう「群像」は、
講談社のものとはまったく異なる、
小樽中学在校生・卒業生が中心となって
1920年に創刊したローカル雑誌)。
作品の善し悪しではなく、
単に部外者からの応募ということでの
「没」だったのですが、
編集委員の一人は、
そのずば抜けて高い文芸性を、
十分に評価していたとのことでした。
「群像」に無視された以上、
自らの雑誌で発表する以外、
方法がなかったのでしょう。
小林多喜二は
「蟹工船」だけではありませんでした。
わずか29歳で没した多喜二には、
まだまだ魅力に溢れた
作品を書き上げているのです。
深く味わいたいと思える作家が、
また一人増えました。
〔「百年文庫079 隣」〕
駄菓子屋 小林多喜二
判任官の子 十和田操
三月の第四日曜 宮本百合子
〔百年文庫はいかがですか〕
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(2023.9.19)

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