「失脚」(デュレンマット)

さて、これはいったいどこの国のこと?

「失脚」(デュレンマット/増本浩子訳)
(「失脚/巫女の死」)
 光文社古典新訳文庫

「失脚/巫女の死」光文社古典新訳文庫

とある国家の政治局員会議。
Nに続いて、参加者が
次々に集まってくる。
だが、彼らの様子はいつもとは
違うようにNには見えた。
頭をよぎるのはOの失脚の情報。
この国において
失脚は「死」を意味する。
O欠席のまま、
会議は開始され…。

わが国ではあまり知られていない
デュレンマットの短編作品です。
ある国の政治局員会議の開始から
結末までを描いているのですが、
お互いに疑心暗鬼に陥り、
緊張感溢れる心理戦が
繰り広げられていきます。
しかし書かれている内容は
寓話的であり、謎に満ちています。
「?」こそが
本作品の味わいどころといえるのです。

本作品の味わいどころ①
冒頭に並んだ記号はいったい何?

本作品の中扉をめくると、
最初に出て来る文字は、
次のようなアルファベットの並びです。

いったい何のことやらと思い、
読み進めると、それらは登場人物の
(記号化された)名前であり、
並びは会議の席順であり、
権力順であることがわかります。
冒頭から登場しているNが、
作品の主人公的役割なのですが
(最後まで読まなければわからないが)、
権力的にはまったく力を
持っていないことが記されています。
「Nは担当部門の専門家以外の
 何者でもなく、
 DにとってもGにとっても
 人畜無害な存在だった。
 NはAにとって
 吹けば飛ぶような存在だったので、
 あだ名さえつけてもらえなかった」

〔主要登場人物〕
A

…国家と党の最高権力者。
 自身の地位を安定させるため、
 政治局を解体し、
 独裁体制への移行を企てる。
B
…外務大臣。
 「革命のクラウセヴィッツ」
 「宦官」のあだ名。
C
…秘密警察庁長官・国務大臣。
 「国務おばさん」。
D…党書記長。「いのしし」。
E…通商大臣。「エヴァーグリーン卿」。
F…重工業大臣。「靴磨き」「ケツなめ」。
G…指導的イデオローグ。「紅茶の聖人」。
H…国防大臣。「ジン・ギス・汗」の一人。
I…農業大臣。「われらがバレリーナ」。
K…大統領。「ジン・ギス・汗」のもう一人。
L…運輸大臣。「記念碑」。
M…教育大臣。「党のミューズ」。
N…郵政大臣。
O…核開発大臣。
P…青少年団長。
以上のように、
登場人物はすべて記号もしくはあだ名で
表記されているため、どれが誰なのか、
判別が困難なのですが、
幸いにも「しおり」にそれが一覧として
記されているため、何とか理解が
できる仕組みになっています。

この、
記号で表された人間関係をたどり、
誰と誰が繋がり、
誰と誰が敵対しているのか、
その複雑怪奇な権力構造を読み取り、
読み手も会議の参加者の一員となって
心理戦に参加することこそ、
本作品の第一の
味わいどころとなっているのです。

本作品の味わいどころ②
これはいったいどこの国のこと?

さて、政治局員会議やら党書記長やら
革命やらと登場してくると、
どことなく
「同じ民族の隣国に
侵略戦争を仕掛けている国」または
「力ずくで領土拡張を画策している国」の
ことのようにも思えるのですが、
あくまでも仮想の国です。

A~Pの肩書きを見るに、
恐らくは外向きには
K:大統領やD:党書記長が
国の代表であるはずでしょうが、
その実、裏側では別の権力構造が
出来上がっているという設定は、
上に記した2つの国以上に、
「党内で権力争いばかりして
政治をまったくしていない政治家が
治めている島国」に似ています。
O:核開発大臣(この「核」が
核兵器ではなく原子力発電を
意味すると仮定して)に
何も発言権が与えられず、
権力の言いなりになっていることを
考え合わせると、
まさにそう思えてきてなりません。
さて、これはいったいどこの国のこと?

本作品の味わいどころ③
心理戦を制したのはいったい誰?

冒頭で示されたNの席次は第13位で、
末席です
(その下のO,Pには発言権がないため)。
ところがそのNの席次は、
結末では次のように変化しています
(○にはすべて記号が
書かれているのですが、
それは読んで確かめてください)。

席次は第7位。
会議の間に何があったのか?
一人欠けているのですが、
果たしてそれはOなのか、
あるいは別の誰かなのか?
そしてNが大幅に席次を上げた
理由は何か?

別にNが
何かをしたわけではありません。
最初に記されていたとおり、
Nは政治的には
まったく力がないのですから。
そこが権力争いゲームの
不思議なところでしょう。
「島国」でももしかしたら
そのようなゲームの結果、
トップが決まっているのだとしたら、
空恐ろしいことです。
もっとも、
「だから国民の方を見ていないのか」と
納得はできるのですが。

では、作者・デュレンマットは
いったいどこの国を想定したのか?
彼の国籍は永世中立国スイス。
日本からすると、
スイスはどこの国にも属さない
平和な国という印象を受けるのですが、
武装中立をしている分、
他国との関係維持には常に意識的に
取り組んでいるしたたかな国です。
Nの存在は、もしかしたら
国際舞台における祖国スイスのそれを
考えていた可能性もあります。
いろいろな読み取りが可能な作品です。
ぜひご賞味ください。

〔作者デュレンマットについて〕
フリードリヒ・デュレンマット
(1921-1990)は、
スイス生まれの作家です。
グロテスクな誇張表現を用いて
現代社会の矛盾や行き詰まりを描いた
喜劇的作品によって、
その文学的地位を確立、
劇作家、推理作家、エッセイストとして
戦後に活躍しました
(ドイツ語で作品を書いているため、
本サイトでは「ドイツ語圏の文学」
カテゴリーに入れています)。
日本では長らく
その名が知られていませんでしたが、
近年出版が相次いでいます。
本書のほか、
ハヤカワ・ミステリ文庫から「約束」が、
鳥影社から戯曲集が全三巻で
刊行されるなど、注目されています。

(2023.11.9)

PIROによるPixabayからの画像

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