生き続け成長し続ける雑草に自らを見立て
「草のいのちを」(高見順)
(「百年文庫038 日」)ポプラ社

「草のみずみずしい緑を
眼にすると、
君も心持ちが変るだろう。
きっと変る。
君は君の生命を、
君の生をいとおしく
大切に思うようになる。
きっとなる!」
弟も内瀬も
きょとんとしていたが、
私はまた突然、
詩のようなものを歌い出した…。
病床に伏している
友人・内瀬を見舞った「私」は、
その弟が自暴自棄になっているところに
出くわします。
何か言わなくてはいけないと
思いながらも、適切な言葉が
思い浮かばなかった「私」が、
こみ上げてくるものをそのまま
吐き出したのが、以下の詩です。
われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり
われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり
毎年かわらず 緑なり
緑の己れに あきぬなり
われは草なり 緑なり
緑の深きを願うなり
ああ生きる日の 美しき
ああ生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす
草のいのちを 生きんとす
どこかで聞いたことのある詩だと思い、
よく考えたら、
本作品の作者・高見順による
「われは草なり」なのでした。
見入られることもなく
ひっそりと存在しながらも、
強い意志で生き続け成長し続ける雑草に
自らを見立て、
その生を謳歌しようとする
喜びに満ちあふれた詩です。
〔主要登場人物〕
「私」(倉橋)
…語り手。戦争から復員。
内瀬
…「私」の友人。復員してきたばかり。
「細君」…内瀬の妻。
内瀬貞子…内瀬の妹。女優志願。
内瀬清治
…特攻隊からの復員。
自暴自棄になっている。
本作品には、いろいろなものが
「草」に見立てられています。
一つは内瀬家のようすです。
冒頭から内瀬家の玄関先について、
「延び放題の雑草が、
私の蓬髪のごとくに、
乱れ枯れている」。
それがそのまま内瀬家の実情を
表しているのです。
文章からたどると、内瀬家は、
内瀬夫妻と内瀬の弟妹の
四人で生活しているようです
(内瀬の父母の記述はない)。
若い人間だけで構成された家族です。
内瀬は、
企業の社員として上海に渡ったこと、
そのまま上海で現地召集されたこと、
引き上げに時間がかかったことなど、
戦争によって苦労を重ねたことが
うかがえます。しかし
「ひどく苦労を嘗めたらしいが、
その苦労も苦労として語らない」と
「私」が評しているように、
じっと耐え忍び、
冬を乗り越えようとしている人物として
描かれています。
その弟・清治は、特攻隊の復員兵です。
出撃命令が出されぬうちに
終戦となったか、
出撃したにもかかわらず機の不調等で
任務を遂行できなかったか、
いずれにしても幸運のはずなのですが、
彼はそう捉えてはいません。
「死ぬことが当たり前」と
教えられていたのですから、
当然といえば当然です。
「私」は彼に同情しながらも、
「自ら立ち直る努力を捨ててかかって
ただ絶望的に溺れ甘えている」と
厳しい視線を投げかけ、
「乱れた枯れ草」と表現しています。
妹の貞子は21歳で、女優志願です。
戦時中には考えられなかった
「女優志願」を聞き及び、
「私」は新しい時代の到来を感じ、
「嵐が過ぎて若草が
萌えはじめようとしている」と
言い表しています。
訪問した友人の三兄弟に接した
「私」の心の動きからは、
戦争で傷ついたお互いの心情に
憐れみを寄せるとともに、
雑草のように力強く再生しようとする
強い意志が感じられます。
それが「われは草なり」の詩に
結びついているのでしょう。
「われは草なり」の、
表面的な明るさやすがすがしさしか、
これまで味わえていなかったことに
気づかされました。
この詩には、このような戦後の
やるせない気持ちや
這い上がろうとする強い信念が
込められていたのです。
改めてこの詩が好きになりました。
百年文庫第38巻「日」に収録されている
一篇であり、テーマどおり、
何気ない一日を描きながら、
幸せの本質に迫っている作品です。
しみじみと味わえる逸品です。
ぜひご賞味ください。
〔高見順の作品について〕
書店で見かけることのなくなった
作家の一人ですが、電子書籍で
じわじわと復刊しつつあります。
2019年に突然、単行本
「いやな感じ」が再刊行されています。
〔「百年文庫038 日」〕
華燭の日 尾崎一雄
痩せた雄鶏 尾崎一雄
草のいのちを 高見順
年金生活者 ラム
古陶器 ラム
(2023.12.5)

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