本作品は大人の「恋」の物語です。
「春の雁」(吉川英治)
(「百年文庫034 恋」)ポプラ社

「清吉さん、
このお金の費い途がついたら、
わたしを連れて、
すぐ江戸を立ってくれますか」
自分の胸だけで、もう
決めていたような口吻だった。
清吉はむしろ思う壺だった。
百五十両が、
この女の身代になるならば
むしろ安値いものだ…。
中盤の山場の一節を抜き出しましたが、
これだけで旅の男と
遊女の悲しい恋の筋書きが
見えてきそうな気がするはずです。
百年文庫第34巻「恋」に
収録された一篇ですが、
本作品は大人の「恋」の物語です。
〔主要登場人物〕
清吉
…長崎からの行商人。各地の花街の
女たちを相手に商売している。
秀八
…深川の遊女。清吉から
百五十両を用立ててもらう。
通船楼のおかみさん
…遊女屋の若いおかみさん。
清吉の得意先。
本作品の味わいどころ①
ちょっと見、大人の恋?
惚れた女に百五十両もの大金を貢ぐ。
理由も聞かず。
それがはした金に過ぎない
大商家の主ならいざ知らず、
たかだか一介の旅の商人風情が。
現代であれば
特殊詐欺被害者のようなものですが、
惚れた女にそこまでできるから
「大人の恋」なのです。
長崎から冬の江戸・深川に商いに来て、
商品をあらかた金に換えた段階で、
春には立ち去るのが常の
「春の雁」暮らしの清吉と、
訳ありの美女・秀八との恋は、まさに
「大人の恋」のように感じられます。
その清吉の気前の良さが
不自然なものにならないよう、
作者は花街における
二つの逸話を紹介し、
筋書きのリアリティを高めています。
一つは、客に自らの心意気を示すため、
その客の目の前で自分の情夫と
切れて見せた妓・お蝶の話、
もう一つは、
借金があるにもかかわらず、
稚妓のために三十両の小鳥を逃がし、
それを背負い込んだ妓・お力の話です。
それらを含めて、
花街での遊びを疑似体験し、
大人の恋の模擬授業を受けるのが、
本作品の第一の
味わいどころとなるでしょう。
本作品の味わいどころ②
よく読むと、どこか素人
ところが、じっくり読み進めると、
この清吉、
どこか素人臭さが目立ちます。
大人の流儀に適うように、
精一杯背伸びしているように
思えるのです。
冒頭での通船楼の
おかみさんとの商談のやりとり
(清吉は軽くあしらわれている)、
秘密にしていた割には
秀八との交際を
簡単に見抜かれている経緯、
そして冒頭に抜き出した場面、
秀八から駆け落ちを切り出された際、
安易に打算に走る思考など、
「大人っぽくない」言動が
見え隠れするのです。
でもそれは決して清吉の魅力を損ねる
結果とはなっていません。
より私たちに近い人間性を
持った人物として、
読み手に迫ってくるのです。
遊び慣れしているように見えて、
決して花柳界に染まりきってはいない、
むしろ素人臭さが隠せない
清吉の振る舞いから、
大人の恋に走りきれない若者の姿を
追体験することが、本作品の
第二の味わいどころといえるでしょう。
本作品の味わいどころ③
でもやはり、大人の恋!
で、清吉と秀八の恋の逃避行は
成就するのか、という点が、
筋書きの山場となるはずです。
でも考えてみると、
それで二人が結ばれるのなら、
子どもじみた恋物語に
堕してしまうのです。
花街の、そして大人の物語ですから、
決して甘口の結末ではありません。
最後はやはり
「大人の恋」で幕を閉じます。
その顛末は
ぜひ読んで確かめてください。
現実世界では体験しにくい
(体験できないことの方が多いはず)
大人の恋の行方を、
最後に噛み締めるように
味わっていただきたいと思います。

本作品の作者は
「鳴門秘帖」「宮本武蔵」
「新・平家物語」等の
歴史長篇作品でおなじみの吉川英治。
私も学生時代に
「三国志」でお世話になりました。
もう一度読んでみたいと思いながら、
長編ゆえに
なかなか手を出せていません。
本作品のような素敵な短篇作品を探して
味わっていきたいと思います。
〔「百年文庫034 恋」〕
隣の嫁 伊藤左千夫
炭焼の煙 江見水蔭
春の雁 吉川英治
〔吉川英治の本はいかがですか〕
吉川英治の「三国志」は、かつて
講談社文庫から出ていたのですが、
現在は新潮文庫版が流通しています。
「宮本武蔵」も
新潮文庫から復刊しています。
角川文庫からも
いくつか復刊しています。
こちらも注目です。
(2023.12.19)

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