「壜の中に見出された手記」(ポー)

ポーの恐るべき創造世界の出発点

「壜の中に見出された手記」
(ポー/渡辺温訳)
(「ポー傑作集」)中公文庫

氷が突然、
右と左とに開かれれば、
我々は眩しく廻転し初める、
無数の同心円の中に、
ぐるぐると巨大な壁の頂は
迥な暗の中に消えてゐる
円戯場の縁をめぐつて。
大洋と暴風の叫喚と
咆哮と轟きの中に
船は戦いてゐる――
おお神よ!…。

古文調で書かれた情景、
いったい何を表しているのか?
本作品の終末部分に
作者ポーが添えた一文には、
「大洋は四つの口に依つて、
(北)極湾に突進して、
地殻の中へ吸収されてしまふ」、
つまり、海水は極地の大穴に向けて
流れ込むという旧来の仮説をもとに
書かれたSF作品(1833年発表)なのです。
当然、現代の私たちからすれば
噴飯ものなのですが、
それ以上に本作品には
不思議な味わいがあります。

本作品の味わいどころ①
海は宇宙なみに神秘で危険な場所!

現代でこそ、
地球の隅々まで地形が明らかにされ、
地球上はもはや
「謎」めいた場所などありません。
ところが本作品発表時、
まだまだ海は現代の宇宙なみに
未知の世界だったのです。
南極大陸発見自体が1820年、
その探索が行われるのは
本作品発表以後のこととなります。
本作品の下地となっている
「地球空洞説」は、まだまだ
一般庶民には抵抗なく受け入れられて
いたものだったのでしょう。
きわめて神秘的に描かれている「海」が
新鮮です。

そして本作品前半部では、
大時化に遭遇し、
「私」と老水夫以外の全ての船員が
死亡するという大惨事が描かれます。
その状態で五日五夜、
波に船の行く先を任せたままの
死と隣り合わせの時間が続くのです。
後に書かれることになる
「メヱルストロウム」にも似た、
洋上での鬼気迫る瞬間が
味わいどころとなっています。
海は当時、
神秘で危険な場所だったのです。

本作品の味わいどころ②
「私」が遭遇した船はもしや幽霊船?

その「私」は、六日目にして巨大船と遭遇、
衝突の瞬間、その船に投げ出され、
命拾いをすることになります。
しかしその船は
尋常ではありませんでした。
「見も知らぬ材料で造られて」あり、
材木は「甚だ不適当な特殊な質のもの」、
さらには「非常に孔だらけ」、
それは「たゞ歳月に伴ふ
腐蝕ばかりではなく、
航海中に虫に喰はれたものと
考へられる」のですから、
ただの船ではありません。

さらに乗組員たちも異様です。
彼等は「全然私の出現に気づかないかの
やうに見えた」、
つまり「私」を認識できないのです。
しかも全員に「不思議な、
竦然たる老年の徴」が見られ、
「恐るべき永い星霜の姿が
刻まれてゐた」のですから、
まともではありません。もはや
幽霊船と考える以外にないのです。
全篇に漂うこの
ミステリアスな雰囲気もまた、
本作品の重要な味わいどころと
なっているのです。

本作品の味わいどころ➂
ポーの創造する作品世界の出発点!

さて、本作品は実はポーの
デビュー作ともいえるものなのです。
1833年、24歳のとき、
ポーは応募した雑誌の創作コンテストで
一位を獲得し、そのまま人気作家として
名を知られるようになったのです。
ポーの作品は、
名探偵デュパンの活躍する
探偵小説の源流
「モルグ街の殺人」「窃まれた手紙」
ゴシック小説としての
「黒猫」「アッシャア館の崩壊」
「赤き死の仮面」などが有名ですが、
それらはすべてこの
SF海洋小説ともいえる本作品から
スタートしていたのです。

いや、ポーにとってはそのような
後世のジャンル分けなどまったく
意に介していなかったのでしょう。
想像力のおもむくままに
書き上げたような作品ばかりです。
ポーの恐るべき創造世界の
その出発点としての魅力こそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。

近年、ポー作品の新訳が
いくつかでているのですが、
巽孝之訳の新潮文庫全3冊、そして
河合祥一郎訳の角川文庫全3冊にも、
本作品は収録されていません。
光文社古典新訳文庫刊
小川高義訳「黒猫/モルグ街の殺人」、
中公文庫刊丸谷才一訳「ポー名作集」、
吉田健一訳「赤い死の舞踏会」にも
収録されていないのです。
文庫本では本書「ポー傑作集」のほかは、
創元推理文庫から出ている
「ポオ小説全集1」に
収録されているのみのようです。
ポーの貴重なデビュー作、
味わってみませんか。

(2024.1.5)

〔「ポー傑作集」〕
黄金虫 渡辺温 訳
モルグ街の殺人 渡辺温 訳
マリイ・ロオジェ事件の謎 渡辺温 訳
窃まれた手紙 渡辺啓助 訳
メヱルストロウム 渡辺啓助 訳
壜の中に見出された手記 渡辺温 訳
長方形の箱 渡辺温 訳
早過ぎた埋葬 渡辺啓助 訳
陥穽と振子 渡辺啓助 訳
赤き死の仮面 渡辺温 訳
黒猫譚 渡辺啓助 訳
跛蛙 渡辺啓助 訳
物言ふ心臓 渡辺温 訳
アッシャア館の崩壊 渡辺啓助 訳
ウィリアム・ウィルスン 渡辺温 訳
渡辺温 江戸川乱歩
春寒 谷崎潤一郎
温と啓助と鴉 渡辺東 著

「長方形の箱」

〔本文中で取り上げたポーの本〕

Sarah NによるPixabayからの画像

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「とわの庭」
「アトランティス物語」
「感傷の靴」

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