「甚七南画風景」(坪田譲治)

行間から浮かび上がる作者の「願い」

「甚七南画風景」(坪田譲治)
(「百年文庫043 家」)ポプラ社

甚七老人は齢八十で、
楽しみは方々を見物して
廻ることであった。
遠いところではない。
八十年の生涯に記憶に残る
近くの石橋であるとか。
村端れの一本の
柳の木であるとか。
あれはどうであったかな――
そんなことを思いだしては…。

筋書きといえるほどのものは
ありません。粗筋代わりに
冒頭の一節から抜粋してみました。
童話作家・坪田譲治の、
童話ではなく大人向けの
短篇作品(1938年発表)です。
といっても、八十歳の甚七老人の
とりとめもない生活の様子を
切り取ってきたような作品です。
その中にしみじみとした
温かさと安らぎを感じてしまいます。

〔主要登場人物〕
甚七

…八十歳。
 いつあの世にいってもいいように、
 いろいろなものを見て回っては
 昔を思いだしている。
お婆さん
…甚七老人の妻。
 まだかくしゃくとしている。
三平…甚七の孫。小学校一年生。
作蔵…甚七の家の下男。

上に記したように、
粗筋と言うべきものはありません。
描かれていることをまとめると、
以下のようになります。
⑴墓参りの顛末
①三平を連れて馬に乗って墓参りに行く
②途中で鯰を見かけ、鯰釣りを試みる
 →作蔵に道具を調達させるが
  鯰に逃げられる
➂放鳥がしたくなり作蔵に用意させる
 →お婆さんに止められる
⑵その晩に見た夢
 ~自分が死んだ後、村々を見て回る夢
⑶翌朝のお婆さんとのやりとり
⑷その日の昼の散歩
 ~幼い姉弟のやりとりを立ち聞きする
  姉が弟に昔話を語り聞かせる
⑸帰宅後のお婆さんとのやりとり
 ~午睡の様子
それぞれの部分で、甚七老人の、
老人特有のわがままぶりが
綴られているだけなのです。
しかし、彼の「今やりたいこと」は、
村の風景を見ること。何のために?
自身の幼い頃の昔と、
何も変わって異ないことを確かめ、
安心したかったのでしょう。

まず第一に味わうべきは、
そこに綴られている
さりげない風景の豊かさです。
野道から見える田畑、
墓のある山から見渡した周囲の風景、
幼い頃に見た放鳥の様子等々、
表題の「南画風景」が表すように、
甚七が「今見ている風景」と
「かつて見た風景」が、
南画のような淡い色彩を持って
読み手に迫ってくるのです。

そして次に味わうべきは、
そうした中で甚七が見出してゆく
「死生観」です。
甚七は、馬に乗って墓参りをしたり、
鯰釣りを試みたり、
描かれている様子は
まだまだ元気そのものです。
しかし昭和初期の、
日本人の平均寿命のかなり短かった
時代の八十歳です。
いつ死んでもいいと思うのも
無理はありません。
彼は自分が死んだ夢を見たあと、
次のように感じているのです。
「死ぬるということは、
 この世の中を欠席するようなものだ。
 いや、退校か。それとも卒業か」

そこに不安な気持ちは一切なく、
むしろ楽しみさえ感じているのです。

さて、ここで本作品発表の
1938年(昭和13年)という時期を
考えてみます。
前年1937年から日本は日中戦争に突入、
この年4月には国家総動員法が
公布(5月に施行)され、
戦時体制へと移行した年なのです。
2月には雑誌「中央公論」に
「生きてゐる兵隊」を発表した
石川達三が検挙されるなど、
文壇にも緊張感が走っていた頃です。
坪田もまたそうした時代の空気を
敏感に感じていたに違いありません。

そうした背景を考えると、
本作品は違った表情を見せてきます。
彼は夢の中で、自分の死後(将来)もまた、
村の風景は何ら変わることなく
豊かなままであり続けていることに
安心しているのです。
自分の孫の三平が、
自分の幼い頃同様に
蜻蛉採りをしている光景に
安心しているのです。
甚七の見ている「風景」は、
これから迎えるであろう
暗く沈鬱な時代を前にした、
作者・坪田の平和への願いのような
ものなのでしょう。
そう考えたとき、本作品の行間からは、
作者の「願い」が切実な情感を伴って、
眼前にいくつも
浮かび上がってくるかのような
印象を受けるのです。

単に「ほのぼのとした短編小説」などと
受け止めてはいけない
作品なのでしょう。
坪田が児童文学者として、
その当時にあって、
できる限りのことをした
渾身の作品と考えるべきです。

一昨年から始まった
ロシアによるウクライナ侵略戦争、
そして昨年には
イスラエルによるガザ地区侵攻、
それだけでなく
軍備増強を続ける北朝鮮や
武力による現状変更を進める中国など、
海外からはキナ臭いニュースばかりが
伝わってきます。
世界が、平和でありますように。

(2024.1.16)

〔「百年文庫043 家」〕
帰宅
小さな弟
いちばん罪深い者
ふたりの乞食
強情な娘
老人の死
 フィリップ
甚七南画風景 坪田譲治
みかげ石 シュティフター

「百年文庫043 家」

〔百年文庫はいかがですか〕

〔坪田譲治の本について〕
文庫本については
ほぼすべてが絶版状態にあります。
電子書籍ではいくつか見当たります。
「坪田譲治童話集かっぱとドンコツ」
「新編 坪田譲治童話集」
「日本むかしばなし集(一)」
「日本むかしばなし集(二)」
「日本むかしばなし集(三)」
「せみと蓮の花・昨日の恥」

nagalappaによるPixabayからの画像

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