「百年文庫038 日」

平凡な毎日こそ素敵、そう実感させる五篇

「百年文庫038 日」ポプラ社

「百年文庫038 日」ポプラ社

「華燭の日 尾崎一雄」
娘の結婚日が近づくにつれ、
緒方は妙にせかせかし出した。
彼は、結婚にともなう
世のしきたりというものを
よくは知らない。
彼ら夫婦は、
世間なみの手続を踏まずに
結婚した。
誰にも相談もせず、
誰の世話にもならなかった。
爾来…。

百年文庫第38巻を読了しました。
テーマは「日」。
三人の作家たちの計五作品は、
何事もない平凡な一日にこそ
幸せがあるのだと実感させてくれる、
しみじみとした味わいに満ちています。

「痩せた雄鶏 尾崎一雄」
ラジオが、
「ロンド・カプリシオーゾ」という
ヴァイオリンの
レコードをかけたので、
ああ、あれか、と
聞いているうち、
妻が台所の方から出て来て、
いきなりそれを
止めたことがある。
「なんだ」と緒方は云ったが、
唖然としたのだった…。

「華燭の日」は、長女・初枝の見合いから
婚礼までを描いた作品です。
何か事件が起こるわけではなく、
当たり前の道筋が
記されているだけなのです。
一方の「痩せた雄鶏」は、
その6年前にあたる時期の、
主人公が病床に伏していた頃を
描いています。
こちらも事件はまったく起きず、
緒方の若い頃の逸話や
結婚のなれそめなどが
随筆風に並べられています。

「草のいのちを 高見順」
「草のみずみずしい緑を
眼にすると、
君も心持ちが変るだろう。
きっと変る。
君は君の生命を、
君の生をいとおしく
大切に思うようになる。
きっとなる!」
弟も内瀬も
きょとんとしていたが、
私はまた突然、
詩のようなものを歌い出した…。

病床に伏している
友人・内瀬を見舞った「私」は、
その弟が自暴自棄になっているところに
出くわします。
何か言わなくてはいけないと
思いながらも、適切な言葉が
思い浮かばなかった「私」が、
こみ上げてくるものをそのまま
吐き出したのが、
「われは草なり」
(作者・高見順の詩)なのです。
ここでも事件は何も起きません。
しかし、友人の三兄弟に接した
「私」の心の動きからは、
戦争で傷ついたお互いの心情に
憐れみを寄せるとともに、
雑草のように力強く再生しようとする
強い意志が感じられます。

「年金生活者 ラム」
…目にみえて、
私は紳士らしくなってゆく。
新聞をとりあげるのは、
オペラの様子を読むためである。
私の仕事は完了した。
私がこの世に生まれてきた
責務の一切は終った。
私に割り当てられた
仕事は果たした。
余生は私の自由である。

「年金生活者」は、
年老いて仕事を引退してからの
所感を綴ったような、
そして続く「古陶器」は、
ある程度の財産を築き上げた
老人のつぶやき(大部分が
茶飲み友だちの女性のおしゃべり)を
そのまま記したような、
しみじみと語られるエッセイです。

「古陶器 ラム」
なるほど、
貧しかったときの方が、
いまよりも幸福でした。
けれども、若くもあったのです。
相当の財産は、
老人にとっては
青春の埋め合わせなのです。
なるほど、
悲しい補いではあります。
これ以上のものは
手に入らないのでは…。

人の生き方とは、
映画の主人公が経験するような
波瀾万丈の人生である必要など
まったくないのです。
五十を過ぎたあたりから
実感できるようになりました。
平凡な毎日こそ素敵なのであり、
その時間の中に幸せをいくらでも
見つけることができるのだと。

その時代のその地域の日常を
切り取ってきたような五篇の作品です。
すべて作者の生活の中から
生み出された作品であり、
尾崎一雄・高見順の作品は私小説、
ラムのそれは随筆です。
こうした筋書きの変化に乏しい作品は、
卓越した筆力がなければ
作品として成り立ちません。
三人の作家は、
ともに名前が広く知られた
作家ではないのですが、
それぞれに味わい深い文章によって
作品を編み上げています。
噛み締めるようにして味わうべき
作品群です。

(2024.3.5)

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