「下宿屋」(ジョイス)

「結婚ってこんなものだっけ?」という違和感

「下宿屋」(ジョイス/安藤一郎訳)
(「百年文庫052 婚」)ポプラ社

ポリーのそぶりが
すこし変になりだした、
そこでその青年は
明らかに動揺しかけていた。
ついに、頃合いよしと見定めて、
ムーニー夫人が干渉に出た。
彼女は倫理的な問題を、
肉切り人が
肉を扱うように処理する、
そして今度の場合…。

ムーニー夫人は何を「肉切り人が
肉を扱うように処理する」のか?
娘の結婚です。
百年文庫第52巻「婚」に収録されている、
結婚に関わる短篇三作の中の一つです。
筋書きの中心は、
ムーニー夫人の娘・ポニーに
手を出した男・ドーランが、
夫人によってその責任を
取らされるというものですが、
二人の会談場面は
まったく描かれていません。
しかしどのような
話し合いがもたれたのかが
よくわかる仕掛けがなされた、
なかなかに味わいのある
作品となっています。

〔登場人物〕
ムーニー夫人

…肉屋の娘だったが、
 堕落した元番頭の夫を追い出し、
 下宿屋を手堅く営んでいる。
ポリー・ムーニー
…ムーニー夫人の娘。十九歳。
 やや品がない。
ジャック・ムーニー
…ムーニー夫人の息子。ポリーの兄。
 荒くれ者。
ドーラン
…三十四、五歳。酒屋の店員。
 ポリーと関係を結ぶ。
メァリー…下宿屋の女中。

今日のオススメ!

本作品の味わいどころ①
すべては夫人のてのひらの上で

娘のポリーがドーランと
できてしまったから
仕方なく結婚させる、というものでは
なさそうです。
夫人はそうなることを見越して、いや、
そうなるように仕向けていたとしか
思えない状況が描かれているのです。
はじめは口を出さずに
じっくり監視して証拠を押さえ、
男が動揺しはじめた頃合いを見計らって
一気にたたみかける。
ポリーは母親と結託してはいないし、
彼女自身も夫人の駒の一つに
過ぎないのです。
すべては夫人のてのひらの上で
進行しているのです。
物語前半部(P48-58)は、
夫人の思考に沿って
文章が綴られていきます。
まずは、
「結婚ってこんなものだっけ?」という
違和感を味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
罠にはまった哀れな男ドーラン

当然、ドーランは
罠にはまった気の毒な仔羊といった
ところでしょうか。
筋書きの視点は彼に移行し(P58-65)、
彼の不安な思考を
トレースしていきます。
実際に描かれているのは、
朝起きてから
夫人に呼び出されるまでなのですが、
その短い時間の中で
彼の心中に去来する不安が、
余すところなく描出されていきます。
やはり
「結婚ってこんなものだっけ?」という
違和感を味わうことが大切です。

本作品の味わいどころ③
歴史の繰り返しを予感させる娘

本来ならばその会談の中身こそ
描かれれるべきなのでしょうが、
そこまでの間ですでに
決しているということなのでしょう、
それを描かず
視点はポリーへと移っていくのです。
終末(P65-67)のわずかな部分は、
夫人とドーランの会談中における
ポリーの心境が綴られていきます。

はじめは泣いていた彼女でしたが、
空想に耽るとともに気持ちは
どんどん明るくなっていくのです。
おそらく彼女は夫人の遺伝子を
受け継いでいるのでしょう。
夫人とドーランの話し合いだけでなく、
ポリーとドーランのその後の結婚生活も
見えてくるから不思議です。
必ずしも幸福とはいえない母親を
なぞるようにして始まる娘の結婚生活。
当然、
「結婚ってこんなものだっけ?」という
違和感を最大限に味わうべきです。

娘の幸せなど
微塵も考えていないことは確かです。
しかしそれでいて、
不幸に落ち込むことなく、
それなりに生活は
まわっていくのでしょう。
本作品は、歴史の澱に沈む市民の姿を
描いた連作短編集
「ダブリン市民」(全15篇)の中の
一つです。
20世紀の最も重要な作家の一人である
ジェイムズ・ジョイス
その文学は難解をきわめるのですが、
まずはこの一作から
味わっていきたいものです。
「結婚ってこんなものだっけ?」という
違和感を感じながら。

(2024.4.16)

〔「百年文庫052 婚」〕
求婚者の話 久米正雄
下宿屋 ジョイス
アリバイ・アイク ラードナー

〔ジョイス「ダブリン市民」〕

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