二人の思いのすれ違う都・ローマ
「くすり指」(ギッシング/小池滋訳)
(「百年文庫050 都」)ポプラ社
伯父とともにローマに滞在する
ケリン嬢は、
朝食のテーブルで知り合った
英国人青年ライトンに
惹かれていく。
ケリン嬢はこのまま伯父と過ごす
灰色の将来を憂い、
ライトンは来るはずの手紙を
待ちわび、都での日々を
過ごしていた…。
政治・経済・文化・宗教の中心地である
イタリアの首都ローマ。
欧米の小説や映画では
しばしば恋愛の舞台となる地ですが、
本作品においてもしかりです。
ただし恋は成就しません。
すれ違いの恋の舞台としての
ローマなのです。
〔登場人物〕
ケリン嬢
…アイルランド生まれの女性。
三十歳くらい。
伯父の面倒をみながら生活している。
独り身のまま老いていく将来に
不安を感じている。
ジェイムズ伯父
…ケリン嬢の伯父。資産家。気難しい。
ライトン
…イギリス人の青年。
工業専門学校教師。
療養のためローマに滞在している。
回復し、まもなく帰国予定。
求婚した女性からの手紙を待つ。
本作品の味わいどころ①
素敵な出会いを待つ女性・ケリン嬢
ケリン嬢の、内にに秘めた恋心が
次第に膨らんでいく描写が
第一の味わいどころです。
はしゃぎまわるわけではありません。
彼女はすでに三十前後の年に
なってしまったのですから。
自ら積極的に
仕掛けていくのでもありません。
彼女は外見上の美しさを
持っていたわけではないのですから。
そして何よりも
ジェイムズ伯父との生活が彼女の心に
ブレーキをかけているのです。
「ジェイムズ伯父と一緒に暮らして、
家の一切の世話をして、
おそらく遺産を
相続するかもしれない。
でも、十年も二十年も、無言のまま
老いていってしまった後で、
お金なんか何になる!」
彼女の心情描写には、
ライトンに恋い焦がれる直接表現は
一切見当たりません。
「心を通じ合える人と出会ったのだ。
自分で自分を欺いているのでは
絶対にない」。
作者が抑制的な筆致で綴った
奥ゆかしい女性の心を、
まずはしっかり味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
結婚承諾の手紙を待つ男・ライトン
「わたしと同じように、
あの人も孤独なのだ」と
ケリン嬢が見抜いたように、
ライトンもまた孤独だったのです。
しかしそれは、
他国での療養を余儀なくされ、
恋人とも離れ、
望んだ返事が記された手紙が
なかなか到着しないことによる
「孤独」だったのです。
だから誰かとの会話を必要とし、
ローマの観光案内を
ケリン嬢に申し出たのです。
決して浮ついた性格ではありません。
誠実であり、それゆえに
ケリン嬢の心の機微には
気づけなかったのでしょう。
やや不器用な男です。
不器用ゆえに、とんだ失態も犯します。
コロセオの階段で、
ケリン嬢がライトンの足許に
落ちていたものを拾おうと
左手を伸ばしたとき、
彼は気づかずに後ろを振り向き、
彼女のくすり指を
踏みつけてしまうのです。
どこにでもいる普通の青年ライトンの
誠実かつ不器用な人柄を、
次にじっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
両者の思いの交錯する都・ローマ
したがって、当然の結果として二人は
交わることなく別れていくのです。
最後の場面において、
ケリン嬢の気持ちも想像できずに
恋人から手紙が届いたことを
打ち明けるライトンの不器用さは
頂点に達し、
落胆を微塵も見せずに
ライトンを祝福するケリン嬢の
奥ゆかしさも一層際立つのです。
すれ違いが生み出した、
もの悲しくも清々しい結末を、
最後にたっぷりと堪能しましょう。
怪我した「くすり指」に巻かれた包帯を、
彼からの指輪のように感じている
ケリン嬢に心が痛みます。
舞台はローマでありながら、
「ローマの休日」のような
劇的な筋書きにはなっていません。
地味ではありながら
深い滋味に溢れた逸品です。
ぜひご賞味ください。
(2024.5.7)
〔作者ギッシングについて〕
ジョージ・ギッシングは1857年生まれ
1903年没のイギリスの作家です。
大学在学中は成績優秀で
将来を嘱望された存在でした。
ところが貧しい娼婦を助けるために
盗みを犯し、放校処分の上の入獄。
服役後、一度渡米するものの
イギリスに舞い戻り、
以後は極貧生活に甘んじます。
作品「三文文士」が
ようやく認められたものの、
売れ始めて10年も経たないうちに
病没するのです。
〔ギッシングの本はいかが〕
著作の多くが
絶版となっているのですが、
代表作「ヘンリー・ライクロフトの私記」は
岩波文庫版と光文社古典新訳文庫版が
現役で流通しています。
〔「百年文庫050 都」〕
くすり指 ギッシング
お茶の葉 H.S.ホワイトヘッド
ローマ熱 ウォートン
〔百年文庫はいかがですか〕
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