「潤一郎ラビリンスⅢ」(谷崎潤一郎)

それは「作家谷崎誕生」の瞬間と重なる

「潤一郎ラビリンスⅢ」(谷崎潤一郎)
 中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅢ」中公文庫

「The Affair of Two Watches」
「つまらんさ!
そんな事をしたって!
其れよりは多勢引っ張って行って
ウント牛肉でも食わして
紙幣ビラを切って見せるんだ。
驚くだろうなア皆が。」
何しろ大枚百圓と云う
金の柱を中央に、
三人が三方からと見こう見して、
さすって…。

谷崎潤一郎の数多くある中短篇作品を、
さまざまな切り口から集めた
アンソロジー「潤一郎ラビリンス」。
作品中の登場人物に、
どうしても作者自身が現れてしまうのが
谷崎作品の特徴なのですが、
本書第Ⅲ巻は、
最もその傾向が顕著です。
なにしろテーマは「自画像」。
谷崎が自らをモデルにして書き表した
作品群なのです。ただし、
描かれている年齢が異なるのです。

〔「潤一郎ラビリンスⅢ」〕
The Affair of Two Watches
神童
詩人のわかれ
異端者の悲しみ

第一作「The Affair of Two Watches」の
主人公「私」は、
二十三、四歳の大学生です。
自らの日常を切り取った、というよりも
「暴露」した、といった趣の作品です。
何を暴露しているのか?
「滑稽な金銭感覚」「堕落した大学生活」
「卑小な小市民的性格」の三つです。

自らの恥ずかしい一面
(谷崎自身は恥ずかしいと
思っていないのでしょう)を、
惜しげもなく開陳してしまうところが
いかにも谷崎らしいところです。
しかも、
もっともらしく暴露していながら、
どこまでが本音でどこからが創作なのか
判然としないところも
谷崎らしさといえます。

「神童」
春之助の通って居る小学校では、
教師でも生徒でも一人として
彼の顔を知らない者は
いないくらいであった。
上は校長から
下は小使に至るまで、
自分の学校の高等一年生に
春之助と云う神童が居ると、
口々に評判をして褒めそやし…。

第二作「神童」の主人公・春之助は
小学生です。
純朴な少年などではありません。
自分の優秀さを自覚するあまり、
周囲の人間―それがたとえ親であれ―を
蔑んだ目で見つめる少年、
つまり不快感を催させる少年なのです。

将来は聖人として世の中に君臨し、
人を導くことを
志していた春之助ですが、
性への目覚めの訪れとともに
次第に堕落していきます。
それでいながら自身が天才であることに
微塵も疑いを感じていないのです。
その結果、
「悟り」ともいえる境地に彼は達します。
それは「作家谷崎誕生」の
瞬間と重なるのです。

「詩人のわかれ」
此の頃の出来事なのです。
三月初めの、
或る日の朝のことでした。
Aと云う歌人と、
Bと云う戯曲家と、
Cと云う小説家と、
三人の男が何か頻りに面白そうに
冗談を云いながら、
山谷の電車停留場附近を、
線路に添うて
ぶらりぶらりと…。

第三作「詩人のわかれ」はやや特殊です。
登場人物がA、B、C、Fで表され、
その人物Cが谷崎なのです。
発表が大正6年(1917年)であり、
「此の頃の出来事」について
描かれているのですから、
二十代後半から三十代の
谷崎となっています。
作中ではさらに、
人物Aのモデルが吉井勇(歌人)、
Bは長田秀雄(詩人・劇作家)、
Fはなんと北原白秋であることが
明かされています。

ただし本作品、「自伝的」でありながら、
最後は眠っているFの枕元に
「七頭の蛇アナタに乗った
妖麗なヴィシュヌの神」なる
妖精が現れるという
摩訶不思議な展開となります。
飲んだくれたABCが
夜の東京を闊歩する場面から始まった
「自伝的」作品は、
神々しいメルヘンをもって
幕を閉じるのです。
いったい何が起きているのか?
そのわからなさも含めて
「谷崎作品」なのです。

「異端者の悲しみ」
それから、
章三郎は或る短篇の創作を
文壇に発表した。
彼の書く物は、
当時世間に流行して居る
自然主義の小説とは、
全く傾向を異にして居た。
それは彼の頭に醱酵する
怪しい悪夢を材料とした、
甘美にして
芳烈なる芸術であった…。

最終作「異端者の悲しみ」には、
「刺青」誕生前夜ともいうべき状況が
描かれています。
したがって主人公・章三郎は
デビュー直前の谷崎
(1909年頃)ということになります。

友人を騙して借りた金を踏み倒す。
両親や病気療養中の妹を蔑み
暴言を吐く。
借金をした先の友人が亡くなったことを
密かにほくそ笑む。
友人たちに取り入り金を無心する。
道化になりきり友人たちに飯をねだる。
人間のくずとしか言いようのない描写が
延々と続きます。
しかしそれが
「大谷崎誕生前夜」なのです。
凡人や真面目人間には
小説など書けないのでしょう。

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時系列で並べてみると、
⑴「神童」
⑵「The Affair of Two Watches」
⑶「異端者の悲しみ」
⑷「詩人のわかれ」
となります。
こうしてみてみると、描かれているのは
「卑しさ」「醜さ」「狡猾さ」など、
本来他人に見せたくない、
誰しもが隠しておきたい、
自身の人格の「負」の部分です。
それを惜しげもなく開陳しているのが
本作品群なのです。

破綻しかけているようにも思われる
精神を凝縮させ、発酵させ、蒸留させ、
それまで誰もなしえなかった
文学作品として昇華させる。
これが谷崎潤一郎の恐ろしさなのです。
同時代の芥川太宰のように
自らの精神に身を滅ぼされることなく、
谷崎は79歳まで生き続け、
小説を書き続けました。
自分自身と真っ向から向き合い続け、
それを作品として発表し続けた
大谷崎の「自画像」を、
ぜひご賞味ください。

(2024.5.30)

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