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漱石の初期短篇は、わかりません。
「倫敦塔・幻影の盾」(夏目漱石)
新潮文庫
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倫敦塔を見物した事がある。
その後再び行こうと思った
日もあるが止めにした。
人から誘われた事もあるが
断った。
一度で得た記憶を
二返目に打壊わすのは惜しい、
三たび目に拭い去るのは
尤も残念だ。
「塔」の見物は
一度に限ると思う…。
「倫敦塔」
夏目漱石の初期作品といえば
「坊っちゃん」と「吾輩は猫である」。
前者は中学生でも読める内容であり、
後者は長篇であるものの
文体そのものは平易であり、
どちらも「読みやすい」という
印象があります。
しかし同じ初期の作品でも、
短篇のほうは、そうはいきません。
読みにくいのです。
難しいのです。
理解できないのです。
第一作「倫敦塔」からして難解です。
そこに物語はありません。
ただただ語り手「余」の
空想のみが存在するのです。
憧れの英国の地に着き、
その煌びやかな街並みや建造物に
魅せられながらも、
そこに血の臭いをかぎ取ったかのような
記述が続くのです。
わかりません。
でも、わからない作品を、
わからないなりに
そのまま受け止めるのも
読書の楽しみの一つです。
〔「倫敦塔・幻影の盾」〕
倫敦塔
カーライル博物館
幻影の盾
琴のそら音
一夜
薤露行
趣味の遺伝
この夏中は開け放ちたる窓より
聞ゆる物音に
悩まされ候事一方ならず
色々修繕も試み候えども
寸毫も利目無之
それより篤と熟考の末
家の真上に二十尺四方の部屋を
建築致す事に取極め申候
これは壁を二重に致し
光線は天井より取り…。
「カーライル博物館」
第二作「カーライル博物館」は、
創作を交えた私小説と言われています。
それでいてきわめて随筆的であり、
英国留学中に訪問した博物館の感想を
綴っただけのようにも感じられます。
語り手「余」は、カーライル邸から、
神経過敏で苦しんでいる元家主の様子を
ひしひしと感じているのです。
しかし「余」はそれを
自分と重ね合わせようとは
少しもしていません。
客観的に捉えているだけなのです。
では「余」は何を言いたいのか?
こちらも、わかりません。
盾の形は望の夜の月の如く丸い。
鋼で饅頭形の表を
一面に張りつめてあるから、
輝やける色さえも月に似ている。
縁を繞りて小指の先程の鋲が
奇麗に五分程の間を置いて
植えられてある。
鋲の色もまた銀色である。
鋲の輪の内側は四寸…。
「幻影の盾」
第三作「幻影の盾」は、
アーサー王の時代(つまり五、六世紀)の
英国を舞台とした、
それも現実なのか幻想なのか、
その境目のはっきりしない筋書きです。
物語のキーアイテムが、
表題にもなっている「幻影の盾」です。
その盾は、粗筋代わりとして
冒頭に掲げた一節に
書かれてあるとおりですが、
それに続く描写にも驚かされます。
かいつまんでいうと、つまりは
魔女ゴーゴンが
そこに描かれているのです。
ただの武具としての盾などではなく、
魔力・妖力を持った
呪物としての盾なのです。
この盾は、果たして主人公ウィリアムに
何をもたらすのか?
何度読んでも、わかりません。
心理学者の友人・津田から
幽霊の話を聞いた直後、
迷信好きの婆さんからも
「今夜は犬の遠吠えがおかしい」と
言われた「余」は、
婚約者の身の上が
急に不安になってくる。
夜明けとともに、
婚約者のもとへ駆け付けた
「余」が見たものは…。
「琴のそら音」
第四作「琴のそら音」は、
一読するとホラー作品です。
雨は降り出す、
葬儀の一行に出くわす、
切支丹坂という名の
気味の悪い坂を通る、
ゆらゆらと揺れる赤い火を見る…。
徐々に徐々に不安に陥っていく
語り手「余」。
まるで心理サスペンスのように、
その様子が
巧みな筆致で描かれています。
しかし本作品は単なる怪談話なのか?
そこに隠された意味は無いのか?
何かのメタファーではないのか?
いろいろ考えても、わかりません。
三人は如何なる
身分と素性と性格を有する?
それも分らぬ。
三人の言語動作を通じて
一貫した事件が発展せぬ?
人生を書いたので
小説をかいたのでないから
仕方がない。
なぜ三人とも一時に寝た?
三人とも一時に
眠くなったからである。
「一夜」
第五作「一夜」がまたわかりません。
「八畳の座敷に髯のある人と、
髯のない人と、
涼しき眼の女が会して、
かくのごとく一夜を過した」様子を
描いたという作品なのですが、
発表当時から
「一読して何の事か分らず」
(読売新聞)という批評が
あったくらいですから、
現代の私たち(私だけ?)が読んでも
理解不能です。
やはり、わかりません。
百、二百、簇がる騎士は
数をつくして北の方なる
試合へと急げば、
石に古りたる
カメロットの館には、
只王妃ギニヴィアの
長く牽く衣の裾の響のみ残る。
薄紅の一枚をむざとばかりに
肩より投げ懸けて、
白き二の腕さえ明らさまなる…。
「薤露行」
第六作「薤露行」は、
アーサー王の物語、というよりは
円卓の騎士の一人・ランスロットの
情痴話です。
書かれてあることを
そのまま受け止めると、
ランスロットの情事の相手は
ギニヴィア、シャロットの女、
エレーンの三人なのですが、
ではそもそも漱石は、
このランスロットの情痴話で
いったい何を読み手に
伝えようとしていたのか?
つまりは、わかりません。
若い女だ!と余は覚えず
口の中で叫んだ。
背景が北側の日影で、
黒い中に女の顔が
浮き出したように白く映る。
眼の大きな頬の緊った
領の長い女である。
指の先でハンケチの
端をつかんでいる。
そのハンケチの雪のように
白いのが、…。
「趣味の遺伝」
最後の作品「趣味の遺伝」も
わからないことだらけです。
作品は三つの章から
構成されているのですが、
「一」で描かれる日露戦争は
何を意味するのか?
「三」で描かれる「謎の女捜し」は
ミステリなのか?
そして表題「趣味の遺伝」の
真の意味は何なのか?
最後もまた、わかりません。
いいのです。
わからない分、再読の楽しみが
広がると思えばいいのです。
時間を置いて再読したとき、
漱石のいわんとしていることが
見えてくるのなら、しめたものです。
簡単にわかってしまえば
二度と読まないでしょう。
わからない作品こそ、長く付き合える
友だちのようなものです。
ぜひご一読を。
(2024.6.27)
〔青空文庫〕
倫敦塔
カーライル博物館
幻影の盾
琴のそら音
一夜
薤露行
趣味の遺伝
〔関連記事:夏目漱石作品〕
〔夏目漱石の本はいかがですか〕
以下すべて新潮文庫刊
「吾輩は猫である」
「坊っちゃん」
「三四郎」
「それから」
「門」
「草枕」
「虞美人草」
「彼岸過迄」
「行人」
「こころ」
「道草」
「硝子戸の中」
「二百十日・野分」
「抗夫」
「文鳥・夢十夜」
「明暗」
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