狂気か、それともブラックユーモアか
「タール博士とフェザー教授の療法」
(ポー/巽孝之訳)
(「大渦巻への落下・灯台」)新潮文庫
南仏旅行中の「わたし」は、
以前より関心を持っていた
マイヤール氏経営の精神病院へ
見学を申し入れる。
氏は、患者への懲罰や監禁を
極力しないという
当時の先進的な
「鎮静療法」を行い、
世に知られた人物だった。
ところがそこには…。
探偵デュパンなどのミステリ、
「黒猫」をはじめとするホラー、
さらにはSF、ゴシック小説など、
幅広い分野で活躍した作家・ポー。
本作品はいったいどんなジャンルに
カテゴライズされるべきか?
〔主要登場人物〕
「わたし」
…語り手。マイヤール氏の精神病院に
見学を申し入れ、受け入れられる。
マイヤール
…私立の精神病院院長。
本作品の味わいどころ①
普通の人間か、それとも精神異常者か
紹介状なしでは
訪問できない精神病院に、
「わたし」は友人のつてで
見学を許されるのです。
人里離れた辺鄙な土地にある、
めったに訪問者の訪れない精神病院。
ホラーとしてはこれ以上ないくらいの
舞台です。
「わたし」はディナーにも
招かれるのですが、
そこで見たものは…。
自分の受け持った精神病患者の病状を
楽しげに語る
病院職員たちだったのです。
自分をティー・ポットだと信じていた
患者について語る
「肥満体の小柄な紳士」、
自らをロバだと思い込んでいた
患者を取り上げる「のっぽの男」、
チーズと信じて疑わなかった
男の話をする「痩せこけた男」、
このあたりで「わたし」の感じる不安は、
読み手の不安とシンクロするのです。
この面々は果たして普通の人間なのか、
それとももしや
精神異常者ではないのか?
その答えは、
全体の1/3ほど読んだところで、
ほぼ確定していきます。
本作品は、読み手の裏をかこうとした
小説ではなさそうです。
本作品の味わいどころ②
何かの暗喩か、それとも陰湿な風刺か
そもそもこのディストピア小説の
香り漂うこのような作品の場合、
何かの暗喩であることも多いのですが、
本作品の場合はどうなのか。
実は巻末の解説には、
次のように書かれてあります。
「作品自体に
「タール博士」も「フェザー教授」も
姿を現さないのに、
いったいどうしてこんな
奇妙なタイトルがついたのか。
その起源は、当時のアメリカ南部で
奴隷制度廃止論者に対して
広く行われていた
「タールと羽根のリンチ」に
求められる」。
この、いわゆる「タール羽根の刑」は、
対象となった者の身体に
タールを塗り込み、
その部分に多量の羽毛を付着させ、
その姿で晒し者にする、という
晒し刑なのです。
人間をケダモノに
貶めるというものであり、
当時のアメリカ南部には
広く見られたもののようです。
南北戦争前の時代の作家・ポー。
彼は南部の奴隷解放には
批判的立場を貫いていました。
本作品には、
ポーのそうしたイデオロギーが
色濃く反映されていると
考えていいのでしょう。
本作品の味わいどころ➂
狂気か、それともブラックユーモアか
最終場面で大波乱が起きます。
現代の視点から見ると、それは
「狂気渦巻く破天荒な展開」として
一種のエンターテインメントとして
作用しそうですが、
書かれたのは19世紀、
決してそうではありますまい。
「精神病患者を監禁・拘束せずに
自由な生活をさせると
病院が乗っ取られる」というそれは、
そのまま読んでも
ブラック・ユーモアどころか
差別・偏見にほかならないのですが、
「精神病患者=黒人」、
「病院=社会」と置き換えると、
一層その度合いが増してきます。
さて、本作品から
影響を受けた作家も多く、
先日とりあげた安部公房「誘惑者」も
「味わいどころ①」の視点から考えると、
重なる部分が多々あります。
精神疾患は「ある」「ない」と
明確に区分できるものではなく、
誰しもがその要素を持ち、あるのは
その「濃淡」だけなのかもしれません。
身体の健康も大事ですが、
精神の健康ももちろん大切です。
ポー作品にはまりすぎずに、
健全な読書体験をしていきましょう
(私はすでにはまっていますが)。
(2024.7.25)
〔「大渦巻への落下・灯台」〕
大渦巻への落下
使い切った男
タール博士とフェザー教授の療法
メルツェルのチェス・プレイヤー
メロンタ・タウタ
アルンハイムの地所
灯台
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