「潤一郎ラビリンスⅧ」(谷崎潤一郎)

本作品集は、日本ミステリの源流に位置する

「潤一郎ラビリンスⅧ」(谷崎潤一郎)
 中公文庫

「途上」
会社を終えての帰宅途上で、
湯川は私立探偵・安藤から
声をかけられる。
彼は近々結婚する予定の
妻の実家からの身辺調査と思い、
渋々応対する。
探偵は、数ヶ月前に亡くなった
彼の元妻について
矢継ぎ早に質問する。
そしてついには…。

「途上」

谷崎潤一郎の中短篇作品を、
いろいろな切り口から集めた
アンソロジー「潤一郎ラビリンス」。
その第8巻のテーマは「犯罪小説集」。
つまりはミステリです。
谷崎潤一郎がミステリー!?と
驚かれる方も
いらっしゃるかも知れませんが、
彼は初期の頃、
いくつか犯罪小説を著していて、
本作品集はそれらを集めて
編んだものです。
でも、現代の「ミステリ」とは
だいぶ違います。
かつての「推理小説」とも
様相が異なります。
谷崎ならではなの
「犯罪小説集」なのです。

冒頭にとりあげた一篇「途上」は、
まさに探偵の登場する「探偵小説」です。
しかし事件が起きているわけでもなく、
ゆえにトリックがあるわけでもなく、
したがって推理する場面もありません。
探偵が一方的に話すだけなのです。
そしてその中で、
ただただ探偵が男の行動と心理を
解説していくだけなのです。
その当時も、そして現代までも、
こうした手法は他に見当たらず、
谷崎ミステリと呼ぶべき
独特のスタイルとなっているのです。

〔「潤一郎ラビリンスⅧ」〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上

或る調書の一節―対話
或る罪の動機

「私」
「私」と同室の学生三人は、
寮での盗難を話題にしていた。
犯人は下り藤の紋付きの
羽織を着ていた。
平田は当事者からの話を
紹介しながら
「私」の顔色を窺った。
どうやら平田は
「私」を疑っているらしい。
私の家紋も下り藤なのだが…。

「私」

ミステリ色の強いのが、この「私」です。
寮内で起きた連続盗難事件の
犯人は誰か?
途中まで、犯人と同じ紋付きを
持っているために疑われた「私」の、
冤罪を晴らすドラマかと思えば…、
やはり一筋縄ではいきません。
最後にどんでん返しが
待っているとともに、谷崎特有の、
自らの性格的暗部の
開陳が始まるのです。

「或る調書の一節」
警察の取調官(A)が
殺人を犯した男(B)を
取り調べる。
男はこれまで窃盗や強盗など
多くの前科があり、今また
情婦殺害容疑で勾留されていた。
男は答える。私は一生
悪い事は止められません。
悪い事をする方が
どうも面白いのです…。

「或る調書の一節」

「或る罪の動機」
博士を殺害したのは
書生の中村だった。
彼は善良な青年であり、
博士に恨みはなかった。
彼は動機を滔々と語る。
私が博士を殺しましたのは、
まあ一と口に云いますと、
全く殺す理由がないと云う所に
理由があったのでございます…。

「或る罪の動機」

続いて、「或る調書の一節」
「或る罪の動機」の二篇も、
取り調べを素材にしていることから
ミステリ色の強い作品と
なっているのですが、
やはり単純ではありません。
両作品とも「犯罪とは何か?」
「犯罪者の心理とはどのようなものか?」
そうした哲学的な視点から
語られているのが特徴なのです。

「前科者」
己は前科者だ。
そうして而も藝術家だ。
己のあの忌まわしい
破廉耻罪が暴露して、
いよいよ監獄へ送られた時、
平生己の藝術を崇拝して居た
世間の奴等は、
どんなにびっくりしただろう。
せめて犯罪の性質が、
女にでも関係がある…。

「前科者」

「呪はれた戯曲」
お前の命と己の命と、
孰方が貴いかと云えば、
己の命の方が貴い。
お前は何の働きも自覚もない
平凡な女だ。
己は此れでも
才能のある藝術家だ。
孰方か一人の命を
失つて濟む事なら、
お前の命の失われるのが正当だ。
それが当然の…。

「呪はれた戯曲」

「私」の終盤における
谷崎自身の暗部の開陳は、
こちらの二作でも見られます。
そして芸術家としての
谷崎の特異な考え方が
前面に押し出されています。
「前科者」では、
芸術と人間性とは別物であり、
罪を犯したことについては
いくら非難されてもかまわないが、
芸術は本物であるからそれを認めろ、
という、谷崎独自の思想
(一般的にはただの我が儘としか
思えないものなのですが)が
色濃く反映されています。
「呪はれた戯曲」では、
「芸術家の命の方が重い」だの、
「捨てられるお前よりも
捨てる己の方が苦しみが大きい」だの、
屁理屈としか言いようのない台詞が、
次から次へと記されているのです。
まさにむき出しのエゴイズムなのですが
それこそが谷崎なのです。

「柳湯の事件」
「僕は今夜、
人殺しの大罪を犯して居るかも
知れません。
自分では全く分らないのです。
人殺しがあったのはほんとうで、
下手人は
僕でないのかも知れません。
それとも或は初めから、
人殺しなんぞ
全然なかったかのかも
知れません。…。

「柳湯の事件」

最後の一篇は、
「ミステリ」というよりも「ホラー」、
「ホラー」というよりも
もしかしたら「法螺話」、
まったくつかみ所のない
作品となっています。
謎解きは最後の二頁で行われ、
その衝撃は絶大です。
幽霊ではなかったものの、
殺人はあったのです。
したがってホラーではなく
やはりミステリです。
では「青年」はいったい誰を殺したのか?
その背景には何があるのか?
あまたあるミステリの、
斜め上をいく驚きの真相と
なっているのです。

こうして見ると、
谷崎は純文学だけでなく、
ミステリの分野においても
超一級の創作技能を持っていたのです。
しかも誰もまねのできない
独特の世界を創造しています。

事実、江戸川乱歩は、谷崎の「途上」を
相当に意識していたことが、
そのいくつかの作品から
明らかになっています。
明智小五郎のデビュー作となった
「D坂の殺人事件」では、
「絶対に発見されない
 犯罪というのは不可能でしょうか。
 僕は随分可能性が
 あると思うのですがね。
 例えば、
 谷崎潤一郎の「途上」ですね。
 ああした犯罪は
 先ず発見されることは
 ありませんよ。」

という件があります。
また、「赤い部屋」の自作解説には、
「これは谷崎潤一郎氏の「途上」を
 もっと通俗に、もっと徹底的に
 書いてみようとしたのだ。」

ともあります。

谷崎は「ミステリ」という分野に
興味がなかったのか、
これらの作品以降は、
「ミステリ」風の色合いの作品は
ほとんど見当たりません。
しかし、谷崎のこれらの作品が、
乱歩、横溝をはじめとする
大正期・昭和初期のミステリ作家たちに
与えた影響は
きわめて大きなものがあるのです。
本作品集は、日本ミステリの源流に
位置すると考えて間違いありません。
ミステリ好きのあなた、
ぜひご賞味あれ。

(2024.8.15)

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