「生霊」(久生十蘭)

幻想小説の衣を着せて、その深奥に…

「生霊」(久生十蘭)
(「墓地展望亭・ハムレット 他六篇」)
 岩波文庫
(「文豪怪談傑作選・昭和篇」)
 ちくま文庫

飛騨を訪れた画家松久三十郎は、
畑の中で盆踊りを踊る、
色気のある女と出くわす。
さては狐か、
化かされているのかと
思ったものの、
話を聞くと人間の女だった。
女は、戦死した兄の精霊として、
祖父祖母を
喜ばせて欲しいという…。

「生霊(いきりょう)」。
死人の魂が「死霊」なら、
生きている人間の精神が
体外に彷徨い出るのが「生霊」。
いずれにしても霊魂であり、
超常現象であり、
穏やかならざるものです。
夏の夜にふさわしい標題の作品ですが、
ホラー小説などではありません。
久生十蘭です。
上質な文学作品であり、少しだけ
異世界を楽しむことができます。

〔主要登場人物〕
松久三十郎

…旅好きな画家。飛騨を訪れる。
関原弥之助
…戦死した画家。
関原君子
…弥之助の妹。
 亡き兄に生き写し三十郎と出会い、
 精霊の代役を務めるよう依頼する。

本作品の味わいどころ①
此岸か彼岸か、幻想的な境地

表題「生霊」からイメージされるように、
霊的体験が描かれるのかと思って
読み進めると…、
冒頭に記した粗筋のように、
女狐が現れます。
狸と狐の違いを滾々と述べて
読み手を妖しい世界に誘いながら、
夏の夜の幻想的な風景を
紡ぎ出していきます。
狐に化かされているのだろう。
三十郎の感覚は
そのまま読み手のそれになるのです。
ここは此岸か彼岸か、
その境目が曖昧になるのです。

でも、此岸であることが
次第に明らかになります。
女は狐ではなく人間、
女もまた三十郎を狐と思い込んでいた。
不思議な邂逅が、
不思議な依頼へと繋がっていくのです。
「兄になって、老人たちに
 逢ってやってくださいません?」

あの世のような現世、
そのまどろむような境地こそ、
本作品の第一の
味わいどころとなっているのです。

本作品の味わいどころ②
冥土から蘇る、亡き人の記憶

女の願いを聞き入れ、三十郎は
「お迎火の煙を押し跨ぐように」
女の祖父祖母の住む家へと
入っていくのです。
亡き関原弥之助と生き写しであった
三十郎は、その精霊の代役を
見事につとめ上げるのです。
なるほど、人情話なのか。
そう思い、爽やかな感動に
包まれながら終盤に達すると、
またしても雰囲気が変わります。

「三十郎は、
 自分は松久三十郎なぞではなくて、
 冥土の便宜で、あの世から
 三人の肉親を慕って遙ばる
 この世へ戻って来た
 関原弥之助自身なのかも
 しれないというような
 不思議な気持になって来た」

そして彼は、
弥之助の記憶を脳内に蘇らせるのです。
「決死の突撃に移る十分ほど前、
 水濠の岸に映えている枯れた野菊を
 写生したという関原准尉の行動が、
 自分がそこでそうしたように、
 しっかりした記憶の中から
 思い出されて来るのだった」

現世でありながら
彼岸の香り漂う異質な雰囲気こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。

本作品の味わいどころ③
静かに訴える、戦争の悲惨さ

関原弥之助の亡くなったのは、
日中戦争の中の局地戦である
「台児荘の戦い」。
台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が、
中国軍の大部隊に包囲されて撤退、
大敗北を喫した一戦です。
南京攻略以降、
戦線を拡大しない方針を打ち出していた
大本営の意向を無視する形で、
無許可のまま北支那方面軍が
暴走した戦闘だったのです。

本作品は昭和16年発表。
まだまだ戦時中であり、
声高に反戦を訴えるなど
できない時代でした。
作品の検閲も始まり、
作家たちは自由に作品を書き上げるのが
困難な時代でもあったのです。
その中で、わずか一行だけ
関原弥之助の死因が戦死であること、
それも軍部の面子の保持のためだけに
行われた、大義のない戦闘で
命を失ったことを記し、
戦争の無意味さを
静かに訴えたのでしょう。

幻想小説の衣を着せて、
その深奥に悲惨な現実を織り込み、
読み手に提示する。
久生十蘭のそうした作品構造自体が、
本作品の最大の
味わいどころと考えられるのです。

八月もまもなく過ぎようとしていますが
まだまだ寝苦しい夜は続きそうです。
夏の夜の読書としてお薦めの一篇です。
ぜひご賞味ください。

(2024.8.29)

〔「墓地展望亭・ハムレット」〕
骨仏
生霊
雲の小径
墓地展望亭
湖畔
ハムレット
虹の橋
妖婦アリス芸談
 解説(川崎賢子)

〔「文豪怪談傑作選・昭和篇 女霊は誘う」〕
来訪者 永井荷風
都会の幽気 豊島与志雄
沼のほとり 豊島与志雄
復讐 豊島与志雄
生霊 久生十蘭
黄泉から 久生十蘭
幽鬼の街 伊藤整
行列 「死と夢」より 原民喜
夢の器 原民喜
夢と人生 原民喜
鎮魂歌 原民喜
 解説 交歓と鎮魂と 東雅夫

〔関連記事:久生十蘭〕

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