「みずうみ」(シュトルム)

それはあたかもみずうみの水面の静けさにも似て

「みずうみ」(シュトルム)
(松永美穂訳)
(「みずうみ/三色すみれ/
  人形使いのポーレ」)
 光文社古典新訳文庫
(関泰祐訳)
(「みずうみ 他四篇」)岩波文庫
(高橋義孝訳)(「みずうみ」)新潮文庫

ラインハルトは五歳年下の
幼馴染みの少女・エリーザベトに
恋心を抱き、彼女を詩に歌う。
成長し、植物研究への道を選び、
学業に打ち込むラインハルト。
ある日、彼はエリーザベトが
資産家の息子・エーリヒと
結婚したことを知らされ…。

数年ぶりに、
そして何度目かの再読となった
シュトルムの「みずうみ」です。
やはりこれまでとは異なる印象を
作品から受けました。
これまでは押しの弱いラインハルトに
いらだちを覚えていたのですが、
今回は深い共感を
感じるようになりました。
味わいどころは登場する
三名の人物の心情と
それに関わる作者の表現です。

〔主要登場人物〕
ラインハルト・ヴェルナー

…植物研究に
 一生を捧げたと思われる男。
エリーザベト
…ラインハルトより五歳下の幼馴染み。
エーリヒ
…エリーザベトと結婚した資産家の
 息子。農場を経営している。
 ラインハルトとは友人。

本作品の味わいどころ①
自分の気持ちを静かに表すラインハルト

多分、若い方であれば
「大学在学中、手紙すら
書かなかったのだから仕方ない」
「自分から積極的に動かない方が悪い」
などと、失恋におけるラインハルトの
非を責め立てるのではないかと
思われます。
私も若いときに読んでそうでした。
しかし、幼いときからエリザーベトしか
眼に入らなかった彼にとって、
彼女が他の男と結婚するなど想定外の
出来事だったに違いありません。
そして大学在学中であり、
後に一つの研究をなしたとある
彼のことですから、恐らくは
学問に没頭していたことでしょう。
しかも「結婚」など
現実味もなかったと思われます。
故郷で何が進行していたか、
気づく余裕もなかったかも知れません。

しかし彼は、それでも
エリーザベトを求めているのです。
それは夜の月に輝く美しい湖に浮かぶ
白い睡蓮の花をとろうとする
行為として現れます。
彼は夜の湖へ入っていくのですが、
あと一歩のところで溺れそうになり、
それを手にすることが
できませんでした。
ずぶ濡れになって帰った彼は、
こう理由を説明します。
「睡蓮のところに
 行きたかったのですが、
 うまくいきませんでした。
 前に見知っていたことがあるからさ。
 でも、もうずっと昔のことだ」

そうした静かに気持ちを表す
ラインハルトの恋心こそ、本作品の
第一の味わいどころとなるのです。

本作品の味わいどころ②
決して裏切ったのではないエリーザベト

エリーザベトについても
「幼馴染みを無視して
資産家に嫁ぐなんて」と
思われるかもしれません。
しかしエーリヒとの結婚は、
彼女の意に反して行われていたことが
示されるのです。
ラインハルトが田舎の友人たちから
採取した民謡の一節が語られます。
「母が望んだことでした、
 別の人に嫁ぐようにと…」

巻末の解説にも
述べられていることなのですが、
「十九世紀半ばの市民家庭では、
親の意向に沿って結婚するのは
当たり前のこと」だったのです。
エリザーベトの母親は、
ラインハルトが大学在学中に
一度だけ帰郷した際にも、
娘の結婚相手はエーリヒにする予定で
あることを仄めかしているのです。
手紙もよこさぬ幼馴染みよりも、
近くで好意を形で表している
資産家エーリヒの方が
娘の相手としてふさわしいと
感じることは当然のことなのです。
エリザーベトはその狭間に立って
苦悩していたのです。
決してラインハルトを
裏切ったのではない
エリーザベトの苦悩こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなっているのです。

本作品の味わいどころ③
脳天気で人の良さが裏目に出たエーリヒ

エーリヒはどうなのか?
結婚の数年後にラインハルトを
自宅に招待したのは、
彼の傷口に塩を塗るような
行為となったのですが、
エーリヒ自体にもちろん
悪気があったわけではありません。
知らなかっただけなのです。
友人を喜ばせ、妻を驚かせようとする、
単純な動機に過ぎません。
しかし、それによってラインハルトの
想いは鮮烈によみがえり、
エリザーベトの気持ちも
明らかとなるのです。
エーリヒの人柄の良さが招いた不幸、
というよりも、
作者シュトルムの筋書きの巧みさこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなって来るのです。

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ラインハルトもエリザーベトも
自らの感情をはっきりとは表に出さず、
自らの心の中に収められるだけ
収めているのと同じように、
作者自身も
筋書きにおいても表現においても、
きわめて自制的です。
すべてが抑制された中で完結する
美しい物語。
それはあたかも湖の水面の静けさにも
似ています。

冒頭と結末においてのみ現れる
老人となったラインハルト。
その主人公の年代にならないと
わからないものが本作品には
潜んでいるような気がします。
中篇作品ながら、どっしりとした
風格と重量を感じさせる作品です。
ぜひご賞味ください。

〔本作品の訳文について〕
私は本作品の文庫本を、
3冊所有しています。
これまで関泰祐訳を
味わってきたのですが、
今回再読にあたり、松永美穂訳
(光文社古典新訳文庫)を購入しました。
全体的な印象は、松永訳の方が
すっきりして自然体であり、
シュトルム作品の雰囲気に
合致していると考えます。
ところが台詞数カ所については、
関訳の方が的確だと感じます
(原文に対して、ということではなく)。
睡蓮を採りに行った後の
ラインハルトの台詞が最も顕著です。
「睡蓮のところに
 行きたかったのですが、
 うまくいきませんでした。
 前に見知っていたことがあるからさ。
 でも、もうずっと昔のことだ」

(松永訳)
「睡蓮のところへ
 行こうと思ったのですが、
 だめでした。
 僕は以前この花と
 親しかったことがあるんだ。
 もう遠い昔のことだがね」

(関訳)
「実は睡蓮のそばへ
 行ってみようと思ったのですが、
 駄目でした。
 昔、一度知っていたんだが。
 それもずいぶん昔のことに
 なってしまった」

(高橋訳)
訳文の違いを味わうのも
読書の楽しみの一つです。

(2024.9.5)

〔光文社古典新訳文庫版収録作品〕
みずうみ
三色すみれ
人形使いのポーレ

〔岩波文庫版収録作品〕
みずうみ

マルテと彼女の時計
広間にて
林檎の熟するとき
遅咲きの薔薇

〔新潮文庫版〕
みずうみ

ヴェローニカ
大学時代

〔関連記事:シュトルム作品〕

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〔光文社古典新訳文庫はいかが〕

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