「枯葉」(ベッケル)

詩人ベッケルの、詩のような「ものがたり」

「枯葉」(ベッケル/高橋正武訳)
(「碧の瞳・月影 他十二篇」)岩波文庫
(「百年文庫054 巡」)ポプラ社

「あの女のひとも、
人の世から離れていったのね。
あの新しいお墓のなかで
眠っているのよ。」
「あの少女も眠っているのね。
とうとう永遠の憩いに
はいったのね。
でも、あたしたち、
いつになったら、この
長い旅が終わるのかしら?…。

不思議な作品に出会いました。
19世紀半ば、南スペインに生まれ、
若くして逝った詩人ベッケルの、
詩のような「ものがたり」である
「枯葉」です。
味わいどころは、
「枯葉」の語る死生観でしょうか。

〔登場人物〕
「わたくし」

…作品冒頭と終末の語り手。
 深い思索の世界へ入り、
 二ひらの枯葉の会話を聞き取る。
(ひとひらの)「枯葉」
…風に吹き上げられてやって来た「枯葉」
(もうひとひらの)「枯葉」
…水の流れに乗ってやって来た「枯葉」

本作品の味わいどころ①
光を浴びた時代を回顧する「枯葉」

「枯葉」の会話はそれまでの自分たちの
一生の回顧のようなものです。
「太陽のあたたかい口づけで、
のびのびと体を広げた」(誕生)、
「青く深々とした二つの世界の中間に、
浮かんで生きている」(少年期)、
「滴るばかりに緑色」(青年期)、
「黄金色の夢のように
過ぎていった」(壮年期)、
「色も艶も
なくなってしまった」(老年期)、と、
その一生が美しい言葉で
綴られていくのです。
この「枯葉」の詩的表現で綴られた
人生の営みを、
まずはじっくり味わいましょう。

生物の一生は、おそらくすべて
このようなものでしょう。
生があれば死があり、
成長があれば衰退もあるのです。
その揺るがしようのない事実を、
どのように受け止め、
どのように自らのこととして考え、
どのように振る舞うのか。
作者ベッケルから
投げかけられているような気がします。

本作品の味わいどころ②
人の生命のはかなさを歌う「枯葉」

自らの一生を振り返るその途中で、
二ひらの「枯葉」は自らが見てきた人間
(「少女」とその恋人である
「若者」)についても語ります。
そしてその「少女」が(恐らくは病で)
亡くなったことが告げられます。
これが何を表しているのか?

「少女」の「死」から、
「枯葉」たちは自らの生命の終わりを
感じ取っているのです。
本来は人の一生よりもはるかに
短いはずの「木の葉の一生」です。
ここをどう読み取るべきか、
いろいろな解釈ができそうです。
あたかも人の生命のはかなさを
歌っているような「枯葉」の言葉を、
続いてしっかり味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
枯れてなお長い旅を続ける「枯葉」

さらに理解の難しいのは、
冒頭で粗筋代わりに掲げた一節です。
「あたしたち、いつになったら、
 この長い旅が終わるのかしら?」

私たちの感覚では、
枯葉はまもなく土に還るはずです。
ところがそのようなことは
一言も現れていません。
「枯葉」のまま長い旅を続ける、とは
どのようなことなのか?
何を意味しているのか?
ここにも
深い意味が隠されていそうです。
この「枯葉」の
「長い旅」の意味を考えることこそ、
本作品の最大の味わいどころであり、
十分に咀嚼すべき「肝」なのでしょう。

今日のオススメ!

もう一つ加えると、
本作品は単なる擬人化された
「枯葉」の物語ではないということです。
冒頭と終末に、少しだけ
顔を覗かせる「わたくし」。それは
作者ベッケル自身であるはずです。
ほんのわずかな部分に過ぎませんが、
その中に何度も噛みしめて味わうべき
本作品のエッセンスが凝縮しています。
文庫本にしてわずか9頁の本作品、
さながら小宇宙のような
深奥を有していることを感じさせます。
ぜひご賞味ください。

(2024.9.10)

〔「碧の瞳・月影 他十二篇」岩波文庫〕
交響楽的序文
音楽師ペレス
緑の瞳
月影
三つの日付
白鹿
受難華
口づけ
誓い
怨霊の山
地霊
ミゼレレ
はたご屋「ねこ」
枯葉

〔「百年文庫054 巡」〕
アトランティス物語 ノヴァーリス
枯葉 ベッケル
ポンペイ夜話 ゴーチェ

〔ベッケルの本について〕
現在流通しているものは
ほとんどありません。
岩波文庫も絶版中です。
古書であれば
以下のものを入手できそうです。
「スペイン伝説集」
「ベッケル詩集」
「赤い手の王」

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