作品自体は完全に「人を食った」筋書きです
「海坊主」(吉田健一)
(「酒肴酒」)光文社文庫
(「百年文庫059 客」)ポプラ社
男が立ち上って、
明け放した障子の外の
欄干を跨いで地面に降りた。
飛び降りたのではないから、
足が土を踏むまでに
背がそれだけ伸びたのである。
大男は庭を横切って、
その端から川に入った。
既に頭が四斗樽は
あると思われる…。
どう捉えていいのかわからない作品に
出会いました。
吉田健一の「海坊主」です。
文庫本にして十頁足らずの
掌品なのですが、
しみじみとしたエッセイとして始まり、
突然に幻想小説として終わる、
何とも不思議な作品なのです。
〔主要登場人物〕
「こっち」
…語り手。
文士であることが記されている。
初対面の「男」と飲み歩く。
「男」
…語り手と小料理屋「岡田」で知り合い、
はしご酒をした人物。
本作品の味わいどころ①
酒飲みエッセイの静かな味わい
始まりの舞台は銀座の小料理屋「岡田」
(どうやら実在の店らしい)。
書かれてあることから想像する限り、
落ち着いた佇まいであり、
珍しいものを出すわけではないけれども
確かなものを提供する、
質の高い店という印象を受けます。
語り手はそこで
一人で酒を楽しんでいたのですが、
背の高いがっしりした「男」が現れ、
誘われるがままに相席し、
一緒に酒を酌み交わすのです。
その「男」の雰囲気の描写が秀逸です。
「どこか、自然を卓子の向うに置いて
ひとりで飲んでいる、
という風な感じにさせてくれる
人間だった」。
静かな雰囲気の大人の空間を描いた、
しみじみとした
酒飲みエッセイであることに、
まったく疑いを抱かずに
読み進めることになります。
本作品の味わいどころ②
はしご酒、何かが始まる予感が
ところが、店を変えた先は
バー「エスポアール」。
雰囲気は一転し、「男」はそこで
ウイスキーをがぶ飲みします。
それで終わらず、三軒目以降、
焼き鳥屋、ビフテキ屋と続きます。
静かな大人の酒飲みから、
フード・ファイターよろしく
大食らい日記へと
変遷したかのようです。
それは「何か」の始まりを予感させ、
妙に落ち着かない気持ちを抱きながら
読み進めることになります。
本作品の味わいどころ③
「男」の正体…、いったいなぜ?
で、冒頭の一節、終末の数行の
驚くべき結末へと突入するのです。
「男」は「大男」となり、
そのまま「大亀」へと変身し、
姿を消すのです。
唐突な幻想小説へのギア・チェンジ。
「いったいなぜ?」「いったい何?」という
大きな戸惑いを抱えたまま
読み終えることになるのです。
突然の大変身のように思えたのですが、
読み返してみると、表題をはじめとする
作品のいたるところに、
それが仄めかされているのです。
本作品の本当の味わいは、
一読してすぐ読み返さざるを得ない
その「構成の妙」と、
読み返して気づく
作品全体にさりげなく鏤められている
「手掛かり」ということに
なるのでしょう。
作品中で「男」に、
「間違えて貰っちゃ困るよ、
人間は食べないよ」と
言わせている作者ですが、作品自体は
完全に「人を食った」筋書きです。
さて、本作品の作者・吉田健一は、あの
戦後の宰相・吉田茂の息子なのです。
ポーやデフォー等の作品において
優れた翻訳を残している
英文学者であるとともに、
エッセイ、評論、小説等にも
味わい深い作品を数多く残しています。
父に吉田茂、
曾祖父に大久保利通を持つ
政治一家に生まれ育ちながら、
ひたすらダンディズムに
遊んでいたという人物評もあるとおり、
もともと遊び上手だったのでしょう。
本作品にはそうした吉田の
人間的な魅力も
余すところなく現れていて、
それ自体も本作品の
味わいの一つとなっています。
読書の秋に、ぜひご賞味ください。
(2024.9.17)
〔余談〕
余談ですが、本作品のあらすじを
copilotに尋ねたところ、
次のような回答が得られました。
「吉田健一の「海坊主」は、
幻想的な短編小説です。
この作品では、主人公が海辺の村で
不思議な体験をする様子が
描かれています。
ある日、主人公は海で
巨大な海坊主に遭遇し、
その存在に魅了されます。
物語は、海坊主との出会いを通じて
主人公が内面的な変化を
遂げる過程を描いています」。
なんと日本昔話や漫画「シティハンター」
(「海坊主」というキャラクターが
登場する)などが
ごちゃ混ぜにされているのでした。
〔「百年文庫059 客」〕
海坊主 吉田健一
天狗洞食客記 牧野信一
馬 小島信夫
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