
安部が七十年前に描いた世界は、もはや現実として
「パニック」(安部公房)
(「R62号の発明・鉛の卵」)新潮文庫
見知らぬアパートの一室で
眼をさました「私」は、
血まみれで倒れているKと、
かたわらに転がっている、
血のついたナイフに驚く。
なんでこんなことに?
手の血を洗い流した「私」は、
慌てふためいてその場を離れる。
しかし尾行者が…。
泥酔し、前後不覚に陥り、
気づいたら自分の横に…、
裸の女性が寝ていても驚きますが、
それが血だらけの男の死体であれば、
驚愕は一層大きなものとなるでしょう。
どことなく安っぽいミステリのような
事件の開始ですが、
作者は安部公房です。
思わぬ事態が展開します。
それがそのまま本作品の
味わいどころとなっているのです。
〔登場人物〕
「私」
…語り手。32歳。
失業中に「パニック商事」なる企業から
声を掛けられ、
その社員Kと接触する。
K
…パニック商事就職試験担当者。
「私」と会食・痛飲する。
翌朝、死体で発見される。
「女房」…「私」の妻。
本作品の味わいどころ①
就職試験の罠、犯罪に巻き込まれる「私」
うまい話には罠がある。
パニック商事なる企業の
就職試験手続きは、
何から何まで怪しいことばかりです。
路上でいきなり声を掛けられる、
申し込みカードには
住所氏名が記載不要、
企業の活動内容は曖昧模糊、
試験担当者Kは何やら胡散臭い男、
なぜ騙されるのか?
作者・安部の心理描写は絶妙です。
「失業の不安は
逆に人間を信じやすくするものだ」。
ここには失業という
現実に押しつぶされ、
怪しい人間から巧妙に付け入れられる
人間の心理が
次々に描かれていくのです。
それが本作品の第一の
味わいどころといえるでしょう。
本作品の味わいどころ②
自暴自棄の連鎖、犯罪を積み重ねる「私」
目覚めた「私」が直面したのは、
殺人の現場に居合わせたという
事実です。
冷静に対処できれば、
つまりすぐさま警察に通報していれば、
以後に続く不幸は避けられたはずです。
しかし「失業の不安は逆に人間を
信じやすくする」のはここでも同様、
彼は自身が殺人者であることを
疑ってさえいないのです。
自暴自棄に陥り、
軽微な犯罪を積み重ね、ついには
本当の殺人を犯してしまうのです。
犯罪者へと一気に転落していく「私」。
パニック状態に直面し、
一気に瓦解していく人としての良心が、
これでもかと読み手の目の前に
突き付けられてくるのです。
それが本作品の第二の
味わいどころとなっているのです。
本作品の味わいどころ③
驚愕の結末、逮捕され犯罪者となる「私」
そこからが安部らしい展開となります。
死体となっていたはずのKが
再び「私」の前に現れ、
そのからくりを解き明かします。
この一連の「私」の行動こそが
「就職試験」であり、彼は見事
「パニック商事」に合格するのです。
「パニック商事」の正体はいったい何か?
「犯罪集団」という一言で
片づけられるほど単純ではありません。
安部の皮肉がたっぷり効いている
演出がなんともいえません。
合格はしたものの、
彼はそれが「犯罪集団」と知り、
再びパニックに陥ります。
「パニック商事……ドロボウ……
会社……いくらなんでも、
おれはもっとまともな人間さ」。
すでに殺人まで犯し、自首もせず、
そのことを悔いているわけでもない
「私」ですが、「犯罪集団に加担するのは
さらなる悪」であると
考えているのでしょうか。
人間の判断力思考力は
これほどまで崩壊するのかと、
背筋が寒くなる思いがします。
具体的な名前が付されず、
一人称「私」となっていることが、
さらに読み手の感覚を揺さぶります。
もしかしたらこれは
自分にも当てはまるのではないかと。
犯罪者として逮捕される「私」、そして
人としての精神が壊れていく「私」、
その姿こそ、本作品の
最大の味わいどころとなるのです。
さて、本作品は昭和29年発表。
高度経済成長の始まった時期であり、
もしかしたら失業率はそれほど
高くはなかった可能性があります。
だとすれば本作品のシチュエーションは
特殊事例であり、
現実離れした不条理な世界として
読み取られたと考えられます。
ところが令和の現代、
ここに描出されている世界は、
けっして有り得ないどころか、
ニュース等でよく
見聞きするようにすらなっています。
「闇バイト」なる犯罪勧誘に
安易に応じる人間、
自暴自棄となって
簡単に一線を踏み越える人間、
よく考えもせず
「犯罪集団」に加担する人間、等々。
安部が70年前に描いた世界は、
もはや現実として
私たちの前に現れているのです。
ようやく時代が安部に追いついた、
といえば聞こえがいいのですが、
追いついてはいけない世界もあります。
怖いもの見たさに、
ぜひご一読ください。
パニックに陥らないように
気をつけながら。
(2024.10.7)
〔「R62号の発明・鉛の卵」〕
R62号の発明
パニック
犬
変形の記憶
死んだ娘が歌った
盲腸
棒
人肉食用反対陳情団と
三人の紳士たち
鍵
耳の値段
鏡と呼子
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