
シュトルムが鏤めた「手掛かり」こそ味わいどころ
「広場のほとり」
(シュトルム/関泰祐訳)
(「大学時代・広場のほとり 他四篇」)
岩波文庫
彼は診療記録の載っている
四つ折版の一冊をぬき出した。
彼があけたページには、
開業早々のころの
或る年次がついていた。
――副市長には
ひとりの令嬢があった。
このひとのためなのだ、
医者が今ページを
はぐったというのは。…。
代表作「みずうみ」(1949年)で知られる
ドイツの作家・シュトルムの作品です。
「みずうみ」の11年後に書かれた
本作品は、
その趣が「みずうみ」とそっくりです。
やるせない思いが水面の波紋のように
広がってくるような感覚を覚えます。
〔主要登場人物〕
「医者」(クリストフ)
…独身のまま老いた医者。
若き日のことを回想する。
「娘」(クリスティーネ)
…医者の姪。
「法律顧問官」(エドゥアルト)
…「医者」の親友。
フリーデベルク
…若き日の「医者」の診た患者の一人。
老人。
ゾフィー
…フリーデベルクの孫娘。
若き日の「医者」が想いを寄せた。
「老母」
…「医者」の母親。
そもそも展開そのものが
「みずうみ」と酷似しています。
「みずうみ」のラインハルトが「医者」、
エリーザベトがゾフィー、
エーリヒが「法律顧問官」にあたります。
したがって
「医者」がゾフィーに
恋をするものの実らず、
ゾフィーは最終的に
「法律顧問官」と結ばれ、
「医者」はその過去を
しみじみと回想する、という
筋書きです。

「みずうみ」のラインハルト同様、
「医者」は自らの気持ちを
まったく表面に表しません。
恐らくはその想いをゾフィーに
直接伝えることもなかったはずです。
現代の若い方などは、
「自分から積極的に動かない方が悪い」
という形で、失恋における「医者」の非を
責め立てるのではないでしょうか。
しかし、
19世紀のドイツの社会において、
愛する二人が直接想いを伝え合い、
その結果として結ばれるということは、
そう簡単なことでは
なかったのかもしれません。
「医者」がそうであるように、
作者シュトルムもまた
多くを語ろうとしません。
「みずうみ」について先日、
「すべてが抑制された中で完結する
美しい物語」と記しました。
本作品において、シュトルムの筆は
さらに抑制されています。
「医者」の回想する「失恋」における
肝腎の部分が描かれていないのです。
回想場面に描かれているのは
以下の通りです。
①「医者」がフリーデブルク老人を
診察したこと
②老人の孫娘ゾフィーが
気だてのいい少女であること
③「医者」も「老母」も
ゾフィーに好印象を持っていること
④「医者」が蓄えをはたいて
自宅二階に家具を一式新調したこと
⑤「法律顧問官」の家で
開かれたパーティで
「医者」が素直になれなかったこと
⑥「法律顧問官」がゾフィーとの
会談内容を「医者」に伝えたこと
ここには表面的な事実のみが
綴られています。
しかし「医者」の想い、
そしてゾフィーの気持ちは
一切が記されていません。
しかしいくつかの「手掛かり」が
しっかりと組み込まれてあり、
そこから何を読み取りどう解釈するか、
その「手掛かり」こそが
本作品の味わいどころといえるのです。
③④からは、
「医者」がゾフィーを結婚相手として
考えていること、そして
「老母」もそれに同意していること、
などが読み取れます。
準備は万端に整いながらも、
⑤を読む限り、何も進展していないこと、
つまりはゾフィーへの想いを
直接的にはまったく伝えていないことが
わかります。
そしてそこにはいくつかの
「手掛かり」が見つかります。
⑤における「医者」の台詞
「健康という点では、僕は君たち
上品な人たちよりかまさってるよ」。
「医者」は、自らが親友やゾフィーと
社会的身分が劣っていることを認識し、
その溝の大きさを自覚しているのです。
そしてゾフィーの言葉
「あたし、待つ修行は積んでてよ」。
ダンスの相手を断られたことに対しての
一言ですが、それは
「医者」の想いを待つ用意があることを
仄めかしているとも考えられます。
⑥がクライマックスです。
やはり「法律顧問官」とゾフィーの
会談そのものは描かれていません。
そこで彼が彼女に何を伝えたのかも
記されていなければ、
彼女が何を話したのかも
曖昧なままなのです。
ここでも味わうべき
「手掛かり」が見つかります。
「《今の今こそこの男は、
自分自身に問いに対する答を
自分で見つけるにちがいない》
――しかし医者は
それを見つけなかった」。
彼が見つけるべき「答」とは何なのか?
そうしたシュトルムが鏤めた
「手掛かり」から、
作者自身が描こうとしたものの本質を
考えることこそが、
本作品の味わい方といえるのです。
浮かび上がってくるのは、
ごくささやかな幸福と穏やかな諦念、
そして静かに流れゆく哀愁です。
多くを語らぬその筆から
汲み上げられるのは、
実に豊かな想いなのです。
ぜひご賞味ください。
(2024.10.10)
〔「大学時代・広場のほとり 他四篇」〕
広場のほとり
おもかげ
一ひらの緑の葉
アンゲーリカ
レナ・ヴィース
大学時代
〔シュトルムの本はいかがですか〕
現在以下のような本が流通しています。
かつて岩波文庫から
いくつか出版されていましたが、
現在絶版中です。
古書をあたれば以下のようなものが
見つかるはずです。
「聖ユルゲンにて・
後見人カルステン 他一篇」
「美しき誘い 他一篇」
「白馬の騎手 他一篇」
「三色菫・溺死」

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