味わいどころは登場人物三人のおかしな振る舞い
「天狗洞食客記」(牧野信一)
(「ゼーロン・淡雪 他十一篇」)岩波文庫
(「百年文庫059 客」)ポプラ社
厳しい酒に対して
こんなにも脆弱であるわが身が
日増しに
重荷となって来るのであった。
酔ったからというて
むやみと手足を
伸ばすこともかなわず、
飲みたいからというてやたらに
水をあおることも許されず、
名状しがたい陰気な…。
表題通り、「天狗洞」という道場
(らしいところ)の食客となった
「私」の顛末記です。
朝・昼・晩と、食膳に必ず添えられる酒に、
かつて大酒飲みだった「私」は、
その窮屈さゆえに
辟易としているのです。
筋書きらしいものがない割に、
全篇おかしみにあふれています。
牧野信一の「天狗洞食客記」、
味わいどころはずばり、
登場人物三人のおかしな振る舞いです。
〔主要登場人物〕
「私」
…語り手。無口。
「蛙のように胸を張って、頤を撫で、
左腕を挙げる」という、
尊大ぶって見える
奇妙な癖に悩まされる。
訳あって「天狗洞」の食客となる。
天狗洞
…「藤竜軒天狗流兵術指南所」
十一代当主。耳の遠い偏屈な老人。
小間使(テルヨ)
…天狗堂の小間使いの女性。美女。
天狗流の薙刀を極める。
本作品の味わいどころ①
なぜか動きが珍妙になる「私」
「蛙のように胸を張って、頤を撫で、
左腕を挙げる」という癖。
想像しただけで
笑いがこみ上げてきそうです。
もちろん現実にはいないでしょう。
小説にはいろいろと不思議な性格の
人物が登場するのですが、
この「私」ほど珍妙なキャラクターは
なかなかお目にかかれません。
いたって小心者でありながら、
「尊大ぶって見える癖」が
無意識のうちに現れ、
周囲に対して正反対の印象を
与えるのです。
天狗洞からも「肝のすわった男」として
認められ(誤解され)、
入門を許可された上、
本人の意志とは裏腹に、
最終試問まで進んでしまいます。
本作品はまさにこの「私」の
おもしろ「食客記」なのです。
このなぜが動きが珍妙になる
「私」という人物を、
まずはじっくり味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
結局はただの偏屈爺「天狗洞」
天狗流兵術指南所十一代当主と聞くと、
荘厳な雰囲気を湛えた武術家か、
さももなくば
一見隙だらけに見えながら
打ち込まれた剣をことごとく
かわしきってしまう達人
(時代劇や劇画によくある)を
想像してしまいますが、
そのような立派なものではありません。
読み進めると、耳の遠い、
焼き餅焼きの、性格のひねくれた
爺さんであることがわかります。
それがまたなんともいえない
おかしみを漂わせているのです。
「天狗流兵術」そのものも、
由緒あるように描かれながら、
よくよく読むと
代々続いた「インチキ道場」であることが
分かります。
この、結局はただの偏屈爺
「天狗洞」という人物を、
次にしっかり味わうべきでしょう。
本作品の味わいどころ③
人を食ったような美女テルヨ
その天狗洞の弟子「小間使」テルヨもまた
味わい深い人物です。
天狗洞にしおらしく仕えていると
思いきや、
「何を話したって、あの爺には
聞こえやしないから平気ですよ」と、
臆面もなく「私」に囁くのです。
さらには自らへの接し方に窮している
「私」に対して
「ほんとうに厭味のない人と稽古が
出来るかと思うと張り合いですわ」
「夜も碌々眠れないほど嬉しいのよ」
などと打ち明けるのです。
師匠を小馬鹿にしつつ、
武術は極めている、不思議な美女。
そもそもどんな因縁で天狗洞のような
偏屈爺のもとに入門したのか、
そして「私」入門以前は
どんな気持ちで天狗洞と
二人だけの道場で過ごしていたのか、
想像する楽しみが広がります。
この人を食ったような美女
テルヨという人物を、
最後にたっぷりと味わいましょう。
おかしみを誘う、
なんともいえない味わいの作品を
いくつも書き上げた牧野信一ですが、
神経衰弱に悩まされた結果、
わずか40歳という若さで
自死を遂げます。
残された作品を、
存分に味わいましょう。
(2024.10.15)
〔「ゼーロン・淡雪 他十一篇」〕
吊籠と月光と
ゼーロン
酒盗人
鬼の門
泉岳寺附近
天狗洞食客記
夜見の巻(「わが昆虫採集記」の一節)
繰舟で往く家
鬼涙村
淡雪
文学とは何ぞや
気狂い師匠
文学的自叙伝
〔「百年文庫059 客」〕
海坊主 吉田健一
天狗洞食客記 牧野信一
馬 小島信夫
〔牧野信一の本はいかがですか〕
現在流通しているのは本書
「ゼーロン・淡雪 他十一篇」と
単行本一冊があるだけです。
文庫本では以下があります。
「バラルダ物語」
「鬼涙村」
「父を売る子/心象風景」
〔百年文庫はいかがですか〕
【今日のさらにお薦め3作品】
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