「私のソーニャ」(八木義徳)

ラスコーリニコフになれない「私」

「私のソーニャ」(八木義徳)
(「私のソーニャ/風祭」)
 講談社文芸文庫

娼婦S子に対する「私」の想いは、
いつしか愛情へと変化する。
「私」はS子に
まっとうな仕事を世話するが、
「そんな仕事イヤ」と断られる。
お金を稼ぎたいのだという。
「だって、あたしの欲しいものは
みんなお金で
買えるものばかりよ」…。

以前、「劉廣福」を取り上げた
八木義徳の一篇です。
三つの作品からなる三部作なのですが、
一つの作品として読むことができます。
筋書きに大きな展開の変化が
あるわけでもなく、
S子に惹かれた「私」が、
悶々と時間を過ごす様子が
綴られているだけです。
それでいて、何か心に引っ掛かってくる
作品となっているのです。

〔主要登場人物〕
「私」(伴)

…語り手。貧乏な文筆家。娼婦S子を
 愛し、結婚を申し込むが断られる。
S子
…終戦後、満州から引き上げてきた
 女性。二十三歳。

…S子の弟。熊本から呼び寄せる。
 「私」が就職を斡旋する。
「紫檀の土建屋」
…S子の上客。
「にいさん」
…S子の売春宿の経営者の弟分。
 S子に惚れている。
K
…「私」の戦友。鋳物工場経営者。
 弘を雇い入れる。
大鹿
…「私」の文学的師匠。
 S子と結婚しようとした「私」を叱る。
野崎信一
…大鹿の弟子の一人。
 裕福な東北の名家の青年。
F子
…野崎の愛人。同棲したが破綻する。
百合子愛子
…S子の朋輩。
〔本作品の構成〕
「仮面の陰に」
「私のソーニャ」
「運河の女」
※以上の三部作となっている。

本作品の味わいどころ①
ソーニャとしてのS子

表題にある「ソーニャ」とは、
もちろんドストエフスキー
「罪と罰」に登場する
「ソーニャ」にほかなりません。
極貧の生活を送る娼婦ソーニャは、
「シベリア流刑8年」となった
ラスコーリニコフを追って
シベリアに移住し、
ラスコーリニコフを見守った女性です。
身寄りのないS子は、ほとんど
喧嘩別れとなっていた姉と弟に、
身体を売って稼いだ金を送り、それを
自らの「幸せ」と感じていたのです。
その姿は
確かに「ソーニャ」に重なります。

多くの読み手は、このS子の考え方を
理解できないのではないかと思います
(私も理解できない)。
S子を「金づる」としか捉えていない
姉のためになぜ自分を犠牲にするのか?
自分の命を削ってまで
なぜ金を稼ごうとするのか?
心の有り様に「幸せ」を求めず
なぜ「モノ」を買えることを
「幸せ」と捉えるのか?

S子を心の貧しい女性だなどと
考えてはいけないのでしょう。
まったく身寄りのない境遇、
そして誰からも頼られない
誰をも頼れない状態、
明日を生きる金すらない状況、
借金によって縛られている環境、
そうした劣悪の中に
身を置いたことのない人間に、
S子の心情を理解するのは
困難なのだと考えます。

だからこその味わいがあるのです。
作品世界に息づいている
S子という人間に接近し、寄り添い、
その魂に触れることこそが、本作品の
第一の味わいどころとなるのです。

本作品の味わいどころ②
ラスコーリニコフになれない「私」

家族のために身体を売り続けるS子を
ソーニャに見立て、
そのS子を庇護する自分を
ラスコーリニコフに擬えた
「私」なのですが、
「罪と罰」の終盤のように
二人が結ばれることはありません。
身請けするほどの財力には到底届かず、
ラスコーリニコフのような
犯罪者になれるはずもなく、
かといって自らをS子と同じ境遇まで
引き下げることもできず、
なんとも宙ぶらりん、いや、
なんとも不確かな覚悟のまま、
時間だけが過ぎていくのです。

「私」のS子に対する「愛」は、
本当に愛なのか。
それは「憐憫」ではないのか。
きれいごとのように
引き合う二人が結ばれるような、
そんな単純な物語にはなっていません。
理屈でわかっていながら、
自分自身をどうにもできない、
若く未熟な「私」の思考に
触れることこそが、本作品の第二の
味わいどころとなっているのです。

本作品の味わいどころ③
「私」のモデルは作者・八木義徳自身

S子との結婚を、
師である大鹿に相談する「私」ですが、
頭ごなしに叱られます。
当然、「私」は師の言葉に
反発を覚えるのですが、
読み手もそれは同様でしょう。
しかし年をとった今ならわかります。
大鹿の言うことが「正解」であり、
人としてまっとうな在り方なのだと。

実は本作品、
きわめて私小説に近い作品なのです。
「私」のモデルは作者・八木自身であり、
その師・大鹿は横光利一なのです
(併録されている「私の文学 抄」に
詳しく綴られている)。
本作品の「私」と同様に、
八木自身も戦争で妻子を失い、
絶望の中で
ある娼婦を愛するようになるのです。
その女との結婚について
師・横光に相談した際、
やはり同じように
頭ごなしに叱り飛ばされているのです。
女はその後、
土建業者の男に身請けされ、
二人は破局を迎えるのです。

本作品は、
八木が自らの過去を振り返り、
自らの心のかさぶたを
無理矢理引き剥がし、
その傷口を読み手の前
に広げて見せたような作品なのです。
その痛々しい傷跡を、
そっと触れることこそ、
本作品の最大の
味わいどころと考えられるのです。

八木義徳。
現代ではほとんど忘れ去られてしまった
感があるのですが、
芥川賞を受賞した
「劉廣福」をはじめとする
味わい深い作品を書き残した、
忘れ去るにはあまりにも惜しい
作家の一人です。
「私のソーニャ」、ぜひご賞味ください。

(2024.11.11)

〔「私のソーニャ/風祭」〕
劉廣福
私のソーニャ
雪の夜の記憶
風祭
私の文学 抄
 解説/年譜/著書目録

〔関連記事:八木義徳作品〕

「劉廣福」

〔八木義徳の本はいかがですか〕
残念ながら著作の多くが絶版中ですが、
小学館の「P+D BOOKSシリーズ」から
2冊が刊行されています。

古書を探せば、
以下のような本が見つかるはずです。
「文章教室」
「文学の鬼を志望す」
「一枚の繪」

〔講談社文芸文庫はいかがですか〕

Jongjoon MoonによるPixabayからの画像

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