「屍を嘗めた話」(加能作次郎)

理屈で割り切れない女の情念

「屍を嘗めた話」(加能作次郎)
(「世の中へ/乳の匂い」)
 講談社文芸文庫

十日ばかり凪が続き、
海は大漁旗を掲げた
烏賊釣り船ばかりであった。
ある日、
出港前の空に怪しい雲が見られ、
漁を見送った船が多かったが、
S村では七艘の船が
それを気にせず出掛けていった。
その夜中過ぎ、
突然大暴風が起こり…。

加能作次郎の短篇作品です。
自らの幼少期を振り返った
「迷児」「世の中へ」「乳の匂い」等の
私小説が有名ですが、
生まれ故郷・能登の漁村の生活を描いた
作品も秀逸です。
以前取り上げた「少年と海」と同様に、
海の恐ろしさが素材となっています。

〔登場人物〕
喜三郎

…二十五六の若い漁師。
 船が嵐で難破し、
 屍体で浜に打ち上げられる。
お鶴
…喜三郎の妻。
 喜三郎と思われる屍体を嘗める。

本作品の味わいどころ①
自然とともに生きる村の生活

交通・流通の発達した現代では
なかなか想像できなのですが、
舞台となっているS村は、
おそらくほぼすべての家が漁で生計を
立てていたものと考えられます。
本作品には、そうした
大正期における能登の漁村の生活が、
実に細やかに描かれているのです。
雲を読み、天気を読み、
出航の可否を判断すること。
古老らの知恵を尊重しながらも、
血気盛んな若者たちは
それを軽んじていること。
未曾有の暴風雨の前に、
村が一体となって漁に出た船の
安否を気遣っていること。
海で生きる人々の
生活風景を味わうことが、
本作品の味わいどころの一つと
考えられます。

本作品の味わいどころ②
人知を遥かに超えた海の脅威

十日ほど大漁の日が続き、
今日も大丈夫だろうと
思っているところへ、
突然の大嵐が船と村を襲います。
「それは幾十年来、
 どんな古老も曾てその例を
 知らないような大暴風雨であった」

現代風にいえば、
「これまで経験したことのないような」
大嵐、時期としては初秋ですので、
恐らくは大型台風なのでしょう。
直前に港を出た一隻
(すぐ引き返すことが可能だった)以外、
沖に出た船が
帰ることはありませんでした。

「漁師でも船乗りでも、
 いつもお天道様の心を読んで、
 それに逆らわんように
 気をつけるのが一番肝心な点や」

古老たちは若い漁師たちに対し、
警告していたのですが、
大漁が期待される海を目前に、
その言葉は意味をなさなかったのです。
欲に目が眩み、
自然の驚異を甘く見すぎた結果、
多くの若者が
命を落とすことになったのです。
「ありがち」な筋書きといってしまえば
それまでですが、
関東大震災(大正12年)発生以前の
大正期の文学作品に、
自然災害の脅威が描かれているものは
決して多くはないはずです。
舞台は、今年一月に大地震、
九月に豪雨災害を経験した能登半島。
今一度、人知を遥かに超えた自然災害の
脅威を噛みしめるべきでしょう。

本作品の味わいどころ③
理屈で割り切れない女の情念

加能がこの作品で描こうとしたのは、
そうした海の脅威だけではありません。
その後に浜に打ち上げられた
遺体の確認での情景こそ、
加納の伝えたかったことだと思います。

打ち上げられた遺体の中で、
形がくずれたものについては、
親か子か夫婦の中のいずれかが
その死体を嘗めると
判別加能だというのです。
ある遺体が
喜三郎のものだという話が出て、
その妻・お鶴がその確認に向かいます。
「お鶴は菰を
 少し刎ねめくったかと思うと、
 いきなり目を瞑って、
 死体を抱くようにして
 自分の唇をその爛れた額の上に
 押し当てた」

「引っ付くことは引っ付いたれど、
 うちの喜三さんやない、
 喜三さんはあんな人やない。
 お鶴はこう早口に言って、
 やがて村の方へ
 一目散に駆け出した」

死体を嘗めれば分かる、というのは
もしかしたら無縁仏を出さないための
地域の知恵だったのかも知れません。
これは○○さんに違いないと言われても
誰しも形のくずれた遺体が
自分の愛する人のものだとは
にわかに信じられないでしょうし、
それを嘗めることは
実際にはなかなかできないでしょう。
それを、あえて死体を嘗めてまで、
これは夫ではないといいはねた妻。
これこそ女の情念の
深さなのではないかと思うのです。
理屈などでは到底
割り切ることのできない女の情念こそ、
本作品の最大の
味わいどころといえるのです。

激しさはないのですが、
静かに誠実に人の生き方を見つめる
加能作次郎
味わい深いものばかりですが、
そのほとんどが
埋もれたままになっています。
ぜひ、本作品からご賞味ください。

(2024.11.28)

〔「世の中へ/乳の匂い」〕
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