「死霊の恋」(ゴーチェ)

怪談、しかし「恐怖」より「悦楽」

「死霊の恋」(ゴーチェ/田辺貞之助訳)
(「死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇」)
 岩波文庫

「クラリモンド」
(ゴーチェ/岡本綺堂訳)
(「世界会談名作集」)河出文庫

新司祭に任じられた「わし」は、
クラリモンドを
忘れることができず、
僧侶になったことを悔やむ。
ある夜、訪ねてきた男に従い、
死に瀕している女性にもとに
駆けつけると、それはなんと
クラリモンドだった。
「わし」は彼女の亡骸に…。

フランスの幻想怪奇小説の名手・
ゴーチェの代表作ともいえる
「死霊の恋」。
以前とりあげた
「ポンペイ夜話」の主人公は
古代の麗人の亡霊に恋したのですが、
本作品のロミュオーは、
女吸血鬼の亡霊に恋するのです。

〔主要登場人物〕
「わし」(ロミュオー)

…語り手。老いた僧侶。
 神学校の優秀な生徒であった。
 若い時分の不思議な恋の顛末を語る。
 ※岡本綺堂訳では「わたし」
クラリモンド
…「わし」を誘惑した高級娼婦。
 その正体は女吸血鬼。
セラピオン
…「わし」の上司。
 「わし」の精神上の放蕩を見抜く。
バルバラ
…「わし」の司祭館の家政婦。
マルグリトーヌ
…クラリモンドの娼窟の御者。

本作品の味わいどころ①
一人称による語りかけの迫真性

本作品は、
六十六歳となった僧侶の「わし」が、
二十四五歳の若い時分の、
亡霊にたぶらかされた経験を
語って聞かせるという形式で
書かれたものです。
一人称、
つまり語り手目線で語られる出来事が、
迫真性を持って
読み手に伝わってきます。
「自分もまたこのように恋に
落ちてしまうにちがいない」と思わせる
現実味をともなっているのです。
文庫本で約五十頁。読んで一時間。
その間、読み手は、
ゴーチェの編み出した世界へと
精神を彷徨わせてしまうのです。
その語り口こそ、本作品の
第一の味わいどころといえるのです。

本作品の味わいどころ②
怪談、しかし「恐怖」より「悦楽」

本作品は、いわゆる「怪談」です。
しかし迫真性を持って
読み手に伝わってくるのは
「恐怖に震える心」ではなく、
「悦楽を求める魂」なのです。
一目惚れしてしまった
クラリモンドの正体が、
高級娼婦であっても、
死霊であっても、
吸血鬼であっても、
「わし」はそこに
恐怖を感じてはいません。
あるのは彼女との悦楽のみなのです。
単純に読み手を怖がらせるだけの
「怪談」ではありません。
だからこそ文学性に
富んでいるといえるのでしょう。
「怪談」でありながら
読み取れるのは「愉悦」、
その巧妙な構成こそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。

本作品の味わいどころ③
後悔しているのか、いないのか

「同門の衆。決して
 女を見てはなりませんぞ」

結末部分で語り手は、仲間たち
(おそらくは若い僧侶たち)に
自身の後悔の念を伝えているのですが、
その後悔の本質は何か?

一読すると、
死霊にたぶらかされたために、
司祭としての安寧の生活が
失われてしまったことを
嘆いているように思われます。
しかしそれは六十六歳になった
その時点ですら
クラリモンドの幻影を
追い求めているということなのです。
彼の後悔の本質は、
上司セラピオンによって
無理矢理クラリモンドとの繋がりを
断ち切られたことと
見ることができます。
欲望を捨て去って生きる
僧侶としての生活よりも、
欲望のまま生きることを
望んでいたのでしょう。

考えてみると、
クラリモンドとの交歓は
夢の中だけのものでした。
現実世界では失うものはないのです。
しかもその幻想が
きわめてリアルなものであるなら、
「僧侶」と「交歓」、
どちらが現実でどちらが虚構か、
その区別は曖昧なものとなるはずです。
むしろ僧侶としての生活に
魅力を感じることができなくなるほど、
彼女との交歓に魅了されていたのです。
現実を選んだ(選ばされた)ことの
不幸を嘆く僧侶の苦悩。
これこそが本作品の肝であり、最大の
味わいどころとなっているのです。

現実世界では絶世の美女と
結ばれなくても、
夢の中でならそれが可能かもしれない。
そんな(男の)読み手の
卑小な心を刺激する、
邪な作品なのかもしれません。
それこそがゴーチェの仕掛けた
罠なのでしょう。
その罠に落ちないように…、
いやいや、しっかりと落ちて、
その幻想の世界を
十分に愉しみましょう。

※「現実世界では失うものはない」と
 書きましたが、
 実際は生き血を吸われたことによる
 衰弱はあったのでしょう。
 しかしクラリモンドは
 最小限の必要量だけを吸い取り、
 「わし」の生命を奪い取ることの
 ないよう加減しているのです。
 ついつい「ほうれん草でもいっぱい
 食べておけば大丈夫なのでは?」
 などと考えてしまいます。
 クラリモンドはセラピオンの
 考えるような「悪魔」では
 なかったのかもしれません。

(2024.12.2)

〔本作品の訳文について〕
岩波文庫の田辺貞之助訳(1981年)は、
一人称「わし」であり、
かなり品のない言い方をする
主人公として翻訳されています。
一方、岡本綺堂訳(1929年)は、
古い時代の訳文でありながら、
一人称「わたし」であり、
品の良い牧師の印象がある上、
文体もすっきりしています。
今回は田辺貞之助訳を
メインに取り上げましたが、
私は岡本綺堂訳の方が
自然に感じました
(好みの問題かもしれませんが)。
そうなると光文社古典新訳文庫から
刊行された永田千奈訳が
どうなっているか気になります。
読んでみたいと思っています。

〔「死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇」〕
死霊の恋
ポンペイ夜話
二人一役
コーヒー沸かし
オニュフリユス

「ポンペイ夜話」

〔ゴーチェの本はいかがですか〕
「ゴーティエ」と
表記されているものもあり、
検索に注意が必要です。
現在流通しているのは、
岩波文庫と光文社古典新訳文庫の
二冊のみのようです。

古書としては
以下のようなものが見当たります。
「変化:フランス幻想小説」
 (現代教養文庫)
「吸血女の恋:フランス幻想小説」
 (文元社)

〔「世界怪談名作集
   信号手・貸家ほか五篇」〕

序 岡本綺堂
貸家 リットン
スペードの女王 プーシキン
妖物 ビヤース
クラリモンド ゴーチェ
信号手 ディッケンズ
ヴィール夫人の亡霊 デフォー
ラッパチーニの娘 ホーソーン

※岡本綺堂訳「世界怪談名作集」は、
 もう一冊刊行されています。

Willgard KrauseによるPixabayからの画像

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