いきなり悪魔、ほんとに悪魔、やっぱり悪魔。
「気前のよい賭け事師」
(ボードレール/内田義孝訳)
(「百年文庫058 顔」)ポプラ社
昨日、大通りの群衆のなかを
歩いていると、
以前から知合いになりたいと
思っていた不思議な存在者と
体が触れ合ったのを感じた。
一度も会ったことはなかったが、
体が触れた途端、
彼だと分かった。
おそらく、私に対して、彼も…。
悪魔を素材にした作品など、
星の数ほどあるでしょう。
しかしながら本作品のように
終始和やかな雰囲気のまま
人間と語り合う悪魔像を創り上げた
作家はいないのではないでしょうか。
フランスの詩人・ボードレールの
散文詩「気前のよい賭け事師」です。
さて、どんな悪魔が
登場するのでしょうか。
〔登場人物〕
「私」
…語り手。「彼」と賭け事をし、
負けて魂を失う。
「彼」(魔王大王)
…悪魔。賭け事師。話し上手。
本作品の味わいどころ①
いきなり悪魔、賭け上手
粗筋代わりに紹介した、
作品冒頭の一節、「以前から
知合いになりたいと思っていた
不思議な存在者」である「彼」こそ、
悪魔なのです。
最後に悪魔であることが
明かされるのではありません。
その数行後に「魔王大王」という
名称が登場するのです。
当たり前のように登場する悪魔。
さすがはボードレール、
詩集「悪の華」で
一躍有名になったからでしょうか、
「悪」が好きなのでしょう。
そして、
悪魔はさりげなく賭け上手です。
やはり何事もなかったかのように
「私」を賭けに誘い、見事に
「私」の魂を奪い取っているのです。
しかも奪われてもまったく
痛みも苦しみも感じさせないままに
完遂しているのです。
一方の「私」は、自らの魂について、
「しばしば役にも立たず、時として、
邪魔物でもあった」ために、
「それを失っても、
それほど悲しくは」なく、
「さばさばと魂を
失っていった」のですから、
賭に負けた深刻さは微塵もありません。
このコミカルともいえる描写こそ、
本作品の第一の
味わいどころといえるのです。
本作品の味わいどころ②
ほんとに悪魔、話し上手
それにしてもこの悪魔、
話し上手で「私」を退屈させません。
私たちの想像する悪魔、
とりわけ「魔王」だのというものは、
命令形の高飛車な物言いをする
イメージがあるのですが、
ボードレールの生み出した魔王は
いたって話し上手です。
「軽妙で反駁のしようがない冗談」やら
「おどけたこと」などを連発し、
饒舌ぶりを発揮しているのです。
特に、「私」が尋ねた
「神さまの近況」についての
魔王のコメントが秀逸です。
「私たちが出会った時には、当然、
挨拶を交わす。でも、
生まれながらの礼節にもかかわらず、
昔の恨みの思い出が
完全に消え去っていない
二人の年老いた貴族が
出会ったようなものだが」。
本当に悪魔かと思えるような、
その饒舌ぶりこそ、本作品の第二の
味わいどころとなっているのです。
本作品の味わいどころ③
やっぱり悪魔、騙し上手
コミカルな雰囲気は
最後まで継続します。
悪魔は別れ際、「私」に
「よい思い出を持っていて欲しい」と告げ
手土産代わりに
「先程勝っていればおまえのものに
なっていたはずの私が賭けたもの」を
与えると約束するのです。
それは明確には示されていないものの、
「富」「名誉」「権力」「色香」といった
もののようです。
はたしてそれらは手に入るのか?
手に入ったとしてそれは
「魂」と引き換えてかまわない
価値のものなのか?
読み手が感じる疑念を、
「私」もまた感じるのです。
わずか9頁弱の本作品、
素敵な「オチ」となる最後の一文は、
最終頁をめくった
そこに書かれてあります。それだけは
読んで確かめてくださいとしか
いいようがありません。
「彼」が本当に悪魔だとしたら、
コミカルな交流の後にこそ、本当の
闇が待ち構えているのでしょうが、
そのようなことすら感じさせません。
この不思議な文体こそ、
本作品の肝であり、最大の
味わいどころとなっているのです。
ボードレールの
代表的な詩集「悪の華」は、
その前衛的な表現が
権力者たちの反感を買い、
風紀紊乱のかどで裁判にかけられるなど
その生涯は決して満たされたものでは
ありませんでした。
本作品など、
当時のフランスの読者たちは
どのように受け止めていたのか
気になるところです。
それはさておき、
幻想文学の素敵な一篇です。
ぜひご賞味ください。
(2024.12.18)
〔「百年文庫058 顔」〕
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気前のよい賭け事師 ボードレール
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