
緩やかな死を体感する人間の悲しみ
「冬の蠅」(梶井基次郎)
(「梶井基次郎全集」)ちくま文庫
(「百年文庫068 白」)ポプラ社
冬の蠅とは何か?
よぼよぼと歩いている蠅。
指を近づけても逃げない蠅。
そして飛べないのかと
思っているとやはり飛ぶ蠅。
彼等は一体どこで夏頃の不逞さや
憎々しいほどのすばしこさを
失って来るのだろう。
色は不鮮明に黝んで、…。
梶井基次郎といえば
「檸檬」が代表作です。
作品のその鮮烈な味わいは、
実際の檸檬のそれに似ています。
本作品も梶井の代表作の一つと
考えるのですが、
イメージは「檸檬」とは正反対です。
「蠅」ですから。
その雰囲気も、鮮烈さなどではなく
陰鬱さが全篇を覆っていて、
読んで愉しくなるような
作品ではありません。
しかしながらその味わいは絶品です。
〔登場人物〕
「私」
…語り手。渓間の温泉地の宿で
転地療養している小説家。
本作品の味わいどころ①
緩やかな死を体感する人間の悲しみ
よく知られているように、
梶井基次郎は結核を病んでいて、
多くの作品に
その死の影が落とされています。
本作品は、まさにその「死の影」が
より濃く現れている(というよりも
「死の影」そのものを書き表した)一篇と
いえるでしょう。
現代では想像が
難しくなってしまったのですが、
明治から戦前にかけて
結核は不治の病でした。
コロナ・ウィルスのように
急激に症状を引き起こすわけではなく、
少しずつ肺をはじめとする
多臓器を侵し、
緩慢に病状が進行していきます。
「死」を目の前にぶら下げられたまま、
緩やかに命を削られていく
病だったのです。
罹患者にとってその恐怖は、
計り知れないものがあったと
考えられます。
明確には記されていないのですが、
本作品が私小説に近いものであり、
「私」=梶井であろうこと、
「私」が絶えず死の影に
怯えていることなどを考え合わせると、
語り手の抱えている病も
結核だったと考えるべきです。
本作品のいたるところに、
「私」の精神を蝕む「死の影」が
姿を現しています。
読んで心地良いものではありません。
しかしそうした感覚こそ、
梶井作品の味わいと考えます。
しっかり味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
病にあってなお自らをいたぶる精神
結核は当時、特効薬がなく、転地療養、
つまり空気の綺麗なところで
静かに休んでいるしかなかったのです。
静養に専念し、体力が回復すれば、
免疫力の向上によって
症状を抑えることができたのですが、
本作品の「私」は(そして作者・梶井は)、
それとまったく反対の行為を
繰り返すのです。
冬の寒い日に、ふとした思いつきで
乗合自動車に乗り込み、
療養地から離れた山中に身を置き、
そこから放浪するのです。
健康な人間でさえも苦痛であるはずの
苦行を、自らに課すのです。
自虐としか言いようがありません。
「私は腑甲斐ない一人の私を、
人里離れた山中へ
遺棄してしまったことに、
気味のいい嘲笑を感じていた」。
表現もまた精神分裂のような様相を
帯びているのです。
この、病にあってなお自らをいたぶる
「病んだ精神」もまた、読んで
けっして楽しめるものではありません。
しかしながらこれもまた
梶井作品の味わいなのです。
じっくり味わうべきでしょう。
本作品の味わいどころ③
突然の変化に左右される人間の弱さ
本作品は序文と
「1」「2」「3」の三つの部分からなります。
本作品を傑作たらしめているのは
最後の「3」の数行ではないかと
思うのです。
療養している宿に帰還した「私」は、
それまでいた「冬の蠅」が
姿を消していることに気づきます。
「私」が部屋を空けている間、
寒気によって死滅したのです。
「私はそのことに
しばらく憂鬱を感じた。
それは私が彼等の死を
傷んだためではなく、
私にもなにか私を生かし
そしていつか私を殺してしまう
きまぐれな条件が
あるような気がしたからであった。
私は其奴の幅広い背を
見たように思った」。
死滅した蠅に、自らの運命を
重ね合わせたものと考えられます。
そしてそれは、突然の環境の変化に
その運命を左右される人間の弱さを
鮮明に浮かび上がらせているのです。
それこそが梶井が病の中から得た
一つの諦念であり、
梶井作品の旨味が
凝縮された部分と考えます。
最後にたっぷりと味わいましょう。
本作品を二十年ぶりに再読しました。
最近起きる事件事故の報道に接し、
本作品をふと連想した次第です。
健康であろうと病人であろうと、
突然その命を奪われることが
起こりうるのです。
私たちは実に儚い「生」を
生きているのです。
必要以上に「死の影」に
怯えることはないのですが、
生きていること、
生かされていることに
思いを寄せる必要はありそうです。
あまりよい読後感は
得られないのですが、
あなたの人生に深みを与えてくれる
逸品であると信じます。
ぜひご賞味ください。
(2025.2.26)
〔青空文庫〕
「冬の蠅」(梶井基次郎)
〔関連記事:梶井基次郎作品〕
「檸檬」①
「檸檬」②
「檸檬」③
「密やかな楽しみ」
「桜の樹の下には」
「Kの昇天」
〔「梶井基次郎全集」ちくま文庫〕
檸檬
城のある町にて
泥濘
路上
椽の花
過古
雪後
ある心の風景
Kの昇天
冬の日
蒼穹
筧の話
器楽的幻覚
冬の蝿
ある崖上の感情
桜の樹の下には
愛撫
闇の絵巻
交尾
のんきな患者
詩二つ
密やかな楽しみ
秋の日の下
小さき良心
不幸
卑怯者
大蒜
彷徨
裸像を盗む男
鼠
カッフェー・ラーヴェン
母親
奎吉
矛盾の様な真実
瀬戸内海の夜
帰宅前後
太郎と街
瀬山の話
夕凪橋の狸
貧しい生活より
犬を売る露店
冬の日
汽車 その他
凧
河岸 一幕
攀じ登る男 一幕
栗鼠は篭にはいっている
闇の書
夕焼雲
奇妙な手品師
猫
琴を持った乞食と舞踏人形
海
薬
交尾
雲
籔熊亭
温泉
〔百年文庫068 白〕
冬の蠅 梶井基次郎
春の絵巻 中谷孝雄
いのちの初夜 北条民雄
〔百年文庫はいかがですか〕

【今日のさらにお薦め3作品】



【こんな本はいかがですか】