
「相手の顔にすっかり欺されてしまった」三作品
「百年文庫058 顔」ポプラ社
百年文庫第58巻、テーマは「顔」。
これが難しい。
顔の美醜などではありません。
カバー裏の紹介文の末尾には
「欺かれる快感をどうぞ」の一文が。
つまり、
「相手の顔にすっかり欺されてしまった」
ということなのではないかと
考えられます。
そんな作品三篇です、
もちろん読み応えがあります。
〔「百年文庫058 顔」〕
追いつめられて ディケンズ
気前のよい賭け事師 ボードレール
イールのヴィーナス メリメ
「追いつめられて ディケンズ」
友人の保険の相談で
「私」の事務所を訪問した紳士
スリンクトンは、最近、
姪を一人亡くしたのだという。
さらにその妹も、
病弱で彼が庇護していた。
彼は一見とても折り目正しく
優しい人物なのだが、
「私」は言い知れぬ
嫌悪を感じる…。

〔「追いつめられて」味わいどころ〕
①謎めく「起」「承」、
誰が「追いつめられ」るのか
②見えてくる「転」、
どう「追いつめられ」るのか
③疾風怒濤の「結」!
「追いつめられ」た男の正体
幽霊もので有名な
ディケンズの一篇です。
本作品に幽霊は登場しませんが、
身の毛もよだつような犯罪が
描かれています。
読み終えて初めて
気づくことになったのですが、
本作品はミステリでした。
問題は表題です。
誰が「追いつめられて」、
いったいどうなったのか?
事件は起きないものの、
明らかに伏線とわかる記述が
いくつも仕掛けられている上、
作者ディケンズは
そこここに危険な薫りを鏤めています。
病弱な少女は
どう「追いつめられ」るのか、いや、
「追いつめられ」るのは別の誰かか?
見えてくる分、
一層不安がかき立てられます。
最後まで事件は起きない(実は静かに
「起きていた」)のですが、
それでも超一級のミステリとして
仕上がっているのです。
「気前のよい賭け事師
ボードレール」
昨日、大通りの群衆のなかを
歩いていると、
以前から知合いになりたいと
思っていた不思議な存在者と
体が触れ合ったのを感じた。
一度も会ったことはなかったが、
体が触れた途端、
彼だと分かった。
おそらく、私に対して、彼も…。

〔「気前のよい賭け事師」味わいどころ〕
①いきなり悪魔、賭け上手
②ほんとに悪魔、話し上手
③やっぱり悪魔、騙し上手
ボードレールの本作品のように
終始和やかな雰囲気のまま
人間と語り合う悪魔像を創り上げた
作家はいないのではないでしょうか。
さて、どんな悪魔が
登場するのでしょうか。
そのコミカルな雰囲気は
最後まで継続します。
悪魔は別れ際、「私」に
「よい思い出を持っていて欲しい」と告げ
手土産代わりに
「先程勝っていればおまえのものに
なっていたはずの私が賭けたもの」を
与えると約束するのです。
それは明確には示されていないものの、
「富」「名誉」「権力」「色香」といった
もののようです。
はたしてそれらは手に入るのか?
手に入ったとしてそれは
「魂」と引き換えてかまわない
価値のものなのか?
「イールのヴィーナス メリメ」
イールの町のペイレオラード氏を
訪ねた「私」は、最近発掘された
銅製の黒いヴィーナス像を
見せてもらう。
その像は官能的でありながら、
どこか邪悪な表情をしていた。
氏の息子アルフォンスが、
結婚式用の指輪を
像の指にはめると…。

〔「イールのヴィーナス」味わいどころ〕
①おどろおどろしい十分な序章
②徐々に提示される恐怖の予兆
③ついに訪れる予想された悲劇
オペラ「カルメン」の台本の
原作者として有名なメリメの、
最高傑作との呼び声の高い
「イールのヴィーナス」です。
ジャンルとしては「幻想小説」、いや
ホラーといってもいいかと思います。
銅製の黒いヴィーナス像は
いったいどんな不幸をもたらすのか?
その悲劇は、
あからさまには描写されません。
「私」が夜に異音を聞いたこと、
翌朝アルフォンスが
死体となっていたこと、
それまで気を失っていた花嫁が
気の触れたような証言をしたことが
記されるだけ、いわゆる
状況証拠のみが提示されるのです。
だからこそ、
悲劇がより一層恐怖を帯びて
読み手の前に迫ってくるのです。
巧妙に仕組まれた
悲劇の体感プログラムこそ、
本作品の肝であり、最大の
味わいどころとなっているのです。
「追いつめられて」は、
相手を欺しているつもりが、
実は欺かれていた男の話、
「気前のよい賭け事師」は、
柔和な表情の悪魔に
もしかしたら欺かれているかもしれない
(いや絶対欺かれている)男の話、
「イールのヴィーナス」が
難しいのですが、
「無生物だと思ったら実は
情念の塊だった」という存在から
欺かれた男の話、とでも
いえばいいのでしょうか。
三篇を読み進めるたびに恐怖の度合いが
大きくなる構成も見事です。
そして三篇とも海外作品です。
ディケンズはイギリスの作家、
ポードレールとメリメは
フランス人です。
表情豊かな欧米人に比べ、
日本人は顔の表情に乏しく、
最初から何を考えているのか
わからないため、「顔で欺く話」を
創りにくいのかもしれません。
いや、難しいことはあまり考えずに
読んだ方がいいのかもしれません。
「追いつめられて」はミステリとして、
「気前のよい賭け事師」はコントとして、
「イールのヴィーナス」はホラーとして、
愉しく味わえます。
エンターテインメントとしても素敵な
味わいの三作品、ぜひご賞味ください。
ところで、恐ろしいのは本書の
三篇だけではないのかもしれません。
現実はもっと恐ろしいことで
いっぱいです。
ネット上にも電話通信にも
私たちを欺いて
お金をだまし取ろうとする輩が
うろうろしているのですから。
三作品の世界とは異なり、
「顔」の見えない分だけ
始末が悪いといえます。
(2025.3.12)
〔関連記事:ディケンズ作品〕
「二都物語」①
「二都物語」②
「二都物語」③
「オリヴァー・ツイスト」①
「オリヴァー・ツイスト」②
「クリスマス・キャロル」①
「クリスマス・キャロル」②
「クリスマス・キャロル」③
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〔関連時期:百年文庫〕



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