
それらを失ってしまった令和の現代こそ
「四月になれば彼女は」(川上健一)
集英社文庫
あの卒業式の三日後の一日こそが
ターニングポイントであり
エポックメーキングなのだと
強く思えるのだ。
十八歳の、まだ坊主頭の、
冬も終わりに近づいた、
誰もが多かれ少なかれ
経験したであろうと思われる
自分だけの特別な気分。…。
冒頭部(プロローグ)の一節を
抜き出しました。
粗筋を掲げようと思いましたが、
あまりに展開が多岐に渡るため、
絞りきれません。
たった一日の主人公の行動なのですが、
相当にハチャメチャで
スリリングなのです。
川上健一の「四月になれば彼女は」です。
同名の作品(川村元気作)が存在し、
近年はそちらの方が
映画化もされた関係で
有名となってしまいましたが、
こちらは昭和の薫りのする、
私のような五十代後半の人間には
たまらない作品となっています。
〔主要登場人物〕
「ぼく」(沢木圭太)
…語り手。工業高校卒業。
野球部だったが肩を壊して退部。
地元に就職が決まっていたが、
卒業式の三日後の一日がきっかけで
単身東京に乗り込む決意をする。
「母」
…「ぼく」の母親。母子二人の家庭。
二瓶みどり
…「ぼく」の小中学校時代の
憧れの女の子。再会する。
工藤春美
…「ぼく」の同級生。
恋人・洋子と駆け落ちする。
あだ名は「伝法寺」
坂崎洋子
…春美の恋人。駆け落ちする。
坂崎熊夫
…洋子の兄。初対面の「ぼく」を
相撲取りにするよう画策する。
太田博美
…「ぼく」の友人。就職が決まっている。
滝内景治
…「ぼく」の友人。東京の伯父の
貴金属店を継ぐために上京する。
大島賢治
…「ぼく」の友人。野球部キャプテン。
米田治
…「ぼく」の友人。あだ名は「ガフタラ」。
戸川文生
…「ぼく」の友人。
あだ名は「自由共産党」。
前山
…「ぼく」の同級生だが、年齢は一つ上。
電気器具の修理が趣味。
坂松
…「ぼく」の友人。
あだ名は「ベラマッチャ」。
松橋、サイ、オト
…「ぼく」と同じ高校の不良グループ。
ユタカ
…農業高校生徒。松橋と対立している。
望月英樹
…「ぼく」の小中学校の同窓。
進学校を卒業。
水口良子、布施真知子
…望月の同級生。
佐藤
…工業高校の美術教師。
退職して上京する。
「女の人」
…三沢の売春婦。
「ぼく」が対面したときは泣いていた。
鈴姉ちゃん
…「ぼく」の従姉。
洋ちゃん
…鈴姉ちゃんの夫。
「ぼく」とはバスケット仲間。
ジョー
…三沢の米兵。
「ぼく」のバスケット仲間。
ビル、リック
…洋ちゃんとトラブルを起こした米兵。
本作品の味わいどころ①
香り立つ昭和のノスタルジー
令和の時代に、そして
都市部に住んでいる若い方には
到底理解できない出来事が
多々登場します。
作中に明確には書かれていませんが、
舞台は昭和40年代の
青森県十和田市です。
「ぼく」の乗るバイク「スーパーカブ」。
現代では原付に乗る若者など
希少になってしまいましたが、
当時はバイクが高校生にとっての
ステイタスの一つとなっていたのです。
また、校内外での「ケンカ」。
これも漫画「ビー・バップ・ハイスクール」
終了とともに下火になりました。
そのほかにも、
高校卒業後に初めて経験する「喫茶店」
(現代の若者なら
マックやスタバがあるため、喫茶店など
利用しないのではないか?)。
恥ずかしくて薬局で買えない「避妊用具」
(現代ならネットでいくらでも買える)。
さりげなくちりばめられた
「昭和のかけら」は、
その時代を経験した読み手には
ノスタルジーを、
それを知らない若い読み手には
ファンタジーを
与えてくれるに違いありません。
この香り立つ昭和のノスタルジーこそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
エンターテインメントに特化
プロローグで述べられる、
「ぼく」が作家を志した
きっかけとなった女性。
本編はその女性との素敵な邂逅が
描かれると思って読み進めると、
肩透かしを食らいます。
本編に登場する二瓶みどりは
その女性ではなく、
それどころかその子との再会の顛末も
わずかばかり、
あっさりとしか描かれていないのです。
「四月になれば彼女は」という
思わせぶりな表題は、
単に当時ヒットしていた
サイモン&ガーファンクルの曲を
「ぼく」が口ずさんだことから
付けられたものであり、
作中の具体的な女性を
指してはいないのです。
これまでの川上作品
「翼はいつまでも」「ららのいた夏」と
路線はまったく異なります。
では、本作品の肝は何か?
それは「卒業式の三日後の一日」の
めまぐるしく起きる出来事を駆け抜け、
地元就職を再考し、
衝動に駆られて東京行きを決めるまでの
「ぼく」の心の変化なのです。
ちなみにどんなことが起こるのか。
・春美と洋子の駆け落ちを手助けする。
・大島と会う。
・二瓶みどりと再会する。
・望月と再会、喫茶店で馬鹿にされる。
・太田、滝内とイワナを採りにいく。
・自宅に戻る、待っていた熊夫から
相撲取りになるよう説得される。
・米田、戸田と会う。
・ユタカ一味に囲まれた松橋を救出。
・前山を訪問。
・前山、坂松とともに雀撃ちに出かける。
・前山、坂松とともに佐藤先生を訪問。
・駅で熊夫に捕まる。
・みどりと遭遇、
バイクで家まで送り届ける。
・バイクで三沢まで移動。
・三沢でバスケットの試合に出場。
・太田、滝内とともに三沢のバーに入る。
・太田、滝内とともに買春(「女の人」が
泣いていたため未遂で終わる)。
・洋ちゃん宅で
米兵とのトラブルに巻き込まれる。
・三沢米軍関係者から取り調べ。
・警察で事情聴取。
・洋ちゃん宅へ戻る、
不眠のまま出発、十和田に戻る。
・上京するみどりを駅で見送る。
・春美とともに上京するため
バイクで三沢駅に向かう。
475頁に、
これがぎっしりと記されているのです。
はたしてこれを一日でこなすことが
可能かどうか怪しいのですが、
スピード感を持った語り口で、
ぐいぐいと読み手を
引き込んでいくのです。
ロマンチックな筋書きではなく、
面白さを優先させ、青春の
最後の一頁を彩ろうとしているのです。
この、エンターテインメントに特化した
筋書きのめまぐるしい展開こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
これは作者川上健一の自伝か
この盛り沢山な経験をする
「ぼく」ですが、
上京して二十五年後が書かれてあるのが
プロローグ・エピローグなのです。
そこでの「ぼく」は作家となっています。
十和田在住、そして工業高校生、
そうした「ぼく」の
人物設定を考えたとき、
モデルは明らかに
作者自身であるとしか考えられません。
本作品は川上健一の
自伝的小説なのです。
描かれている
「卒業式の三日後の一日」は、
大なり小なり
デフォルメされてるとはいえ、
それに近い出来事が
作者の身の上に起こったのではないかと
推測されるのです。
この、ハチャメチャな
展開ではありながらも
自伝的要素を内包している
その成り立ちこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
現代となっては、このような出来事は
小説の中でさえ実現不可能でしょう。
かつておおらかだった時代があり、
モノはなくても
希望だけは満ちていた時代があり、
世の中が
活気に溢れていた時代があったのです。
ノスタルジーとしてではなく、
それらを失ってしまった
令和の現代こそ、
読み味わう価値があると考えます。
若い方にこそ、
ぜひお薦めしたい一冊です。
ご賞味あれ。
(2025.4.14)
〔川上健一の本はいかがですか〕

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