「曇った硝子」(森茉莉)

静かに浮かび上がる作者の実生活とその情念

「曇った硝子」(森茉莉)
(「女体についての八篇 晩菊」)
 中公文庫

魔利の部屋では
何でもがすぐに無くなる。
まるで魔のように、無くなる。
すると、不安な心と、
小さな後悔とが、
魔利の胸の中に波立つのだが、
それもすぐに鎮まってしまう。
昼の光。
魔利が追いかけたり、
或はそのまま消え去るに…。

森茉莉の作品の多くに登場する
主人公・魔利。
モデルは作者・森茉莉自身なのですが、
では作品中の「魔利」は
すべて同一かというと、
そうでもなさそうです。
魔利の読ませ方(本作品では「マリイ」、
他作品では「マリア」もある)が
異なる上、
周囲の人物も名前が異なっています。
本作品で描かれているものは
いったい何か?

〔主要登場人物〕
魔利(マリイ)

…作家の女性。父親も作家。
伊藤樊子(ハンス)
…魔利の息子。魔利と別居していたが
 再会し、同居し始める。
 仏文学者。大学助教授。
ユリア
…樊子の愛人。樊子・魔利と同居する。
鮫島阿曾…魔利の義母。
佐伯阿喜…阿曾の従姉。
伊藤阿奈(アンナ)…樊子の正妻。

本作品の味わいどころ①
幻想的で小綺麗に飾られた「空間」

粗筋がわりに掲げたのは
作品冒頭部の一節です。
筋書きを説明するのは困難です。
筋書きよりもまずは
独特な表現を味わうべき作品なのです。
森茉莉作品すべてに共通するのですが、
表現描写が幻想的で
優雅な雰囲気が漂います。
本作品は魔利の部屋が舞台であり、
視点はそこからほぼ移動しません。
魔利が樊子・ユリアと生活する家の
「空間」が、まるでメルヘン童話の
お金持ちの居室のように描かれていて、
なんとも甘美な雰囲気を
醸し出しているのです。

しかし他作品に描かれているとおり、
作者・茉莉の身のまわりは
散らかり放題であり、
およそ片付けるということが
苦手な人物だったようです。
茉莉は自身の雑然とした部屋の中から
美しいものだけを抜き出し、
デフォルメを加え、
メルヘンの味付けをし、
魔利の部屋としたのでしょう。
この、幻想的で小綺麗に飾られた
「空間」の表すものと隠しているものを
考えることこそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
行間よりも文節間を読ませる文体

独特な表現に次いで味わうべきは、
独特な文体です。
読みやすいよう文章のリズム感に
気配りする作家は多いのですが、
森茉莉の文体はその逆です。
あえて読みにくくしているとしか
思えないような流れの悪さです。
原因は読点の多さです。
普通は打たないところに
あえて読点を打っているのです。
例えば
「一種の見せびらかしのようなものが、
 されて、いた。」

どう考えても二つの読点は
普通この位置には打たないでしょう。
このような文章がほぼすべてにわたって
展開しているのです。
読点だらけです。
読点が数多く打たれることにより、
文節と文節の「間」が
一文の中にいくつもできあがるのです。
したがって読む上で
流れが悪くなっているのです。

これが作者の意図であるならば、
あえて流れを悪くすることによって
読み手に何かを伝えるということでは
ないかと考えられます。
「行間を読む」という言葉はありますが、
森茉莉の場合は
「文節間を読ませる」のを
ねらいとしているのかもしれません。
この、行間よりも文節間を読みこみ、
幻想的な表現の裏側に潜んでいるものを
探り出すことこそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
そこに映し出される作者の実生活

となると、作者・森茉莉が
描きたかったことは
何かということになります。
他の作品同様、
作者自身の身のまわりに起きたことを
描いたとすれば、
長男・𣝣とその継母が
茉莉の財産を騙し取り、
それによって晩年の茉莉が
貧乏生活を強いられた一件と
考えられます。
作者特有の読点で区切られた文節間を
読み込み、
その薄皮を一枚一枚丁寧に剥がし取り、
幻想的で小綺麗に飾られた
「空間」の描写の奥に隠されたものを
掬い上げたときに現れるものは、
歯噛みするほどの憤怒の念なのです。
この、静かに浮かび上がる
作者の実生活とその情念こそ、
本作品の真の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

文豪・森鷗外の娘・森茉莉。
偉大な父とは似ても似つかぬ作風の娘。
しかしその作品の味わい深さは
父・鷗外に勝るとも劣りません。
ぜひご賞味ください。

(2025.4.30)

〔本作品に登場する文学作品〕
本作品中に、フローベール
「聖ジュリアン伝」の一節が登場します。
「聖ジュリアン伝」は
当サイトでもすでに取り上げています。

「聖ジュリアン伝」

〔「女体についての八篇 晩菊」〕
美少女 太宰治
越年 岡本かの子
富美子の足 谷崎潤一郎
まっしろけのけ 有吉佐和子
女体 芥川龍之介
曇った硝子 森茉莉
晩菊 林芙美子
喜寿童女 石川淳

〔関連記事:森茉莉作品〕

「薔薇くい姫」

「贅沢貧乏」

PexelsによるPixabayからの画像

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