
その女を自分好みにカスタマイズ
「赤い屋根」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅡ」)中公文庫
此の男を巧く欺して、
いいように操ってやることが
面白くもあり、それほど自分に
腕のあることが愉快でもあった。
ところが、それがそうではなく、
欺した積りで実は
此の男の註文通りに、一種の
鋳型に嵌められていたのを、
彼女は…。
残虐な仕打ちから喜びを感じるという
感覚を、私は全く理解できませんが、
「マゾヒスト」なる言葉があり、
それを素材とした文学作品も
本作品以外にいくつもあるのですから、
そうした性的嗜好の持ち主が実際には
一定数いるということなのでしょう。
谷崎潤一郎の文学を構成する
要素の一つでもある「マゾヒスト」。
その知られざる一面が描かれている
作品です。
〔主要登場人物〕
宮島繭子
…あまり売れていない女優。
小田切の妾となっているが、
たびたび浮気をしている。
小田切
…繭子の旦那。
繭子にいたぶられるのが好き。
恩地
…繭子の所属する撮影所の技師。
繭子の家に転がり込んでいる。
寺本
…学生。繭子のアプローチに
まったく乗ってこない。
お美代
…繭子の従妹。繭子と同居し、
女中のような役割をこなしている。
お元…繭子の家の下女。
本作品の味わいどころ①
「痴人の愛」ナオミと符合する痴女繭子
主人公は痴女・繭子。
作品冒頭には、
指輪の色直しを発注した貴金属店での
やりとりが描かれているのですが、
そこからは「わがまま」でありながらも
「丸め込まれやすい」
単純な性格であることがうかがえます。
そして中年男性・小田切の
妾の座に納まりながら、
家には撮影所の恩地を
連れ込むとともに、
堅物学生の寺本にも
アプローチするなど、
痴女ぶりを発揮するのです。
その姿は同じ谷崎の名作
「痴人の愛」のナオミの姿と
重なり合います。
「痴人の愛」は
ナオミの夫・河合譲治視点ですが、
本作品は繭子サイドから
痴女の実態が描かれているのです。
二人の行動は
かなり近いものがありますが、
受けるイメージは異なります。
粗筋がわりに掲げた一節に
現れているように、
繭子は男を翻弄しているように見えて、
自分が巧く操られていることに
薄々気づいているのです。
だからこそ
浮気に走らざるを得ないのです。
「痴人の愛」のナオミの
小悪魔的な人物像も、
視座を変えたときには
繭子のような弱くて脆い浅薄な
女の姿として
写ってくるのかもしれません。
確かめてみると本作品は
「痴人の愛」の一年後、
ほぼ同時期に書かれた
双子ともいえる作品なのでした。
この、「痴人の愛」ナオミと符合する
痴女・繭子の嬌態こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
谷崎が透けて見えるマゾヒスト小田切
その繭子にいたぶられている小田切は、
明らかにマゾヒストです。
繭子が男を引っ張り込んでも、
強く諫めるどころか渋々その言い分に
したがっているのですから。
もちろん危ない場面などは
描かれていません(そこは
文学であることをわきまえている)。
しかし彼は
繭子のパトロンでありながら、
繭子に隷属しているのです。
その小田切の姿に、
谷崎の影が透けて見えるのは
当然といえば当然でしょうか。
そしてそこには
単なるマゾヒストで終わらない、
谷崎の人間性が表れています。
女性にかしずきながらも、
その女性を自分好みに
カスタマイズしていく。
しかもその女性に気づかれないよう、
徐々に徐々に。
この、谷崎が透けて見える
マゾヒスト小田切の、
一筋縄ではいかない人物像こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
女をうまく操る男と柔軟に変形する女
つまり、ここに描かれているのは、
マゾヒスト・小田切と痴女・繭子の、
相互作用にも似た
関係の在り方なのです。
うまくいっているように見えて、
なんとも危うい関係性です。
作品終末には、繭子が恩地と駆け落ちの
約束をする場面に続き、
突然訪問してきた寺本を
家に上げるために
小田切を追い出していく場面が
描かれています。
しかし繭子は恩地とも寺本とも
うまくいくとは思えません。
不安定でありながらも
パトロンの小田切から離れることは
できないであろうことが察せられます。
この、女をうまく操る男と、
男に合わせて柔軟に
自らを変形させていく女、
その両者の関係の在り方こそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
さて、「マゾヒズム小説集」と題された
アンソロジーに編まれた本作品、
マゾヒストの姿は
さほど鮮明ではありませんが、
その内側にある、
「女性にかしずきながらも、
その女性を自分好みに
カスタマイズしていく」という、
気づかれにくい特性が
最も色濃く描かれています。
それが次の
「日本に於けるクリップン事件」に
つながり、本書全体で
マゾヒズムの本質を明らかにする
構造となっているのです。
妖しい一冊の中の妖しい一篇ですが、
ぜひご賞味ください。
(2025.5.7)
〔「潤一郎ラビリンスⅡ」〕
饒太郎
蘿洞先生
続蘿洞先生
赤い屋根
日本に於けるクリップン事件
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