
殺人事件かと思えば…、壮大な歴史ロマン。
「成吉思汗の秘密」(高木彬光)
角川文庫
源義経は、
衣川で殺されたのではなくて、
そこから逃げ出して
蒙古へわたり、
成吉思汗になったのだという
伝説があるじゃありませんか。
ひとつこういう
一人二役のトリックが
成立するかどうか
暇つぶしにやってみたら
どうでしょう…。
高木彬光の生み出した名探偵・
神津恭介シリーズの一篇です。
雑誌連載および単行本収録は
昭和33年、
本書角川文庫出版は昭和48年と、
古いものですが、私は縁がなくて
これが初読となります。
驚きました。
殺人事件かと思えば…。
〔主要登場人物〕
神津恭介
…東京大学医学部法医学教室助教授。
入院中の病床から
歴史の謎に挑戦する。
松下研三
…探偵小説作家。神津の親友。
入院中の神津に成吉思汗の秘密を
解くよう持ち掛ける。
松下滋子
…研三の妻。入院中の神津を気遣う。
井村梅吉
…東大文学部歴史学教室助教授。
神津の歴史調査に反論を加える。
大麻鎮子
…井村の助手。神津の調査を手伝う。
仁科東子
…回復した神津に
自らの推論を打ち明ける。
本作品の味わいどころ①
殺人事件かと思えば…、歴史ミステリ
殺人事件かと思えば…、
歴史ミステリでした。
高木彬光の場合、
伝説・伝承を素材として扱ったものが
いくつかあります。
「月世界の女」では
現代のかぐや姫昇天かと思えば
トリックのある失踪事件であり、
「魔弾の射手」では
ドイツの魔弾伝説の再来かと思えば
巧妙な仕掛けが隠された
殺人事件であり、
本作品も成吉思汗伝説に擬えた事件が
起きるのかと思えば…、
まったく違いました。
なんと入院中の神津恭介が、
退屈を紛らわすために
成吉思汗=源義経
(一人二役トリック)であるという俗説が
正しいことを証明しようという
ものなのです。
横溝正史の金田一耕助は、
目の前の事件の捜査の結果として、
その原因となっていた
十数年前の事件も一緒に解明したという
ことがいくつかありましたが、
神津恭介はなんと八百年前の事件の謎に
挑戦しているのです。
その推理はきわめて論理的であり、
義経伝説に関わる
いくつもの文献を引用し、
その真偽を検討し、
何が起きて何が起きなかったか、
可能性が最も高いのはどれか、
冷静に議論を積み重ねているのです。
したがって紹介した登場人物は、
その調査と議論の行為者なのです。
病床にある神津に代わって
相棒ともいえる松下研三が
足を使って取材を行い、
専門的な見地からの知識は
大麻鎮子が受け持ち、
組み上がった神津仮説に対して
反証を加えるのが井村梅吉、
そして最後の場面で
最終結論を示唆するのが仁科東子
(この方は実在の推理作家!)と
なるのです。
この、ミステリと歴史研究を
ミックスしたような驚きの体裁こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
神津結婚かと思えば…、真相は藪の中
単に歴史の謎を
解き明かすだけではありません。
女性嫌いで通っている神津恭介が
なんとついに結婚するのでは…、という
展開となるのです。
病床にまめまめしく通う大麻鎮子女史。
「珍しいほどの美人だった。
色白で瓜実顔、背も高く、
すらりとしているし、
縁なしの近眼鏡をかけていたが、
かえってそれも
聡明そうな感じ」という、
いわゆる理系美女なのです。
天才型切れ者かつ美男子探偵・神津の
パートナーとして
これ以上ふさわしい者はいないのでは
ないかという女性なのです。
成吉思汗の謎の解明とともに、
二人の感情も次第に接近していきます。
しかも二人の恋愛の
サポートについても、
余分な人物を登場させず、
このメンバーで
筋書きを展開しているのです。
特に井村梅吉の役回りが絶妙であり、
作者・高木の技ありの
設定といったところでしょうか。
しかし、二人が
ゴールインしたのかどうか、本作品には
まったく書かれてありません。
「魔弾の射手」のように
破局が書かれていない以上は
めでたく結婚したものと
考えたいのですが、
成吉思汗の謎と同様に真相は不明です。
この、神津結婚かと思えば肝腎な真相を
煙に巻く巧妙な筋書きこそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
一大発見かと思えば…、結末にロマン
成吉思汗=源義経なのかどうかですが、
やはり八百年前の事件について
明確な事実を暴き出すことは
不可能なのです。
しかしその状況証拠の積み重ねは
まさに歴史の真相に
再接近したのではないかと
思われるほどの精緻なものがあります。
義経は衣川で討ち死にしたのか、
それとも生き延びて蝦夷入りし、
さらに大陸に渡って
成吉思汗となったのか、
その両者の可能性の大小を比較し、
白黒つけるのは学者の仕事でしょう。
推理小説作家・高木は、
「成吉思汗=源義経説が正しい」と
主張しているのではないのです。
「成吉思汗=源義経説の可能性は
全否定されるべきものではなく、
相当に整合性のあるものである」ことを
述べているのだと考えるべきでしょう。
読み手の私たちは、その説得力ある
展開を愉しむだけでいいのです。
さらに結末はロマンで結ばれます。
本作品執筆の前年(昭和32年)に
実際に起きた「天城山事件」を登場させ、
八百年前の「椿山心中」とのつながりを
指摘し、それが「輪廻」であることを
説明しているのです。
「椿山心中」とは、次のような事件です。
衣川の難を逃れた義経が、
八戸滞在中、
地元豪族佐藤家の娘と深い仲となる。
さらに北へ義経が逃れたのち、
成長した鶴姫は
青年・阿部七郎と恋に落ちる。
ところがその阿部家は
頼朝に仕える家柄、
義経の落とし子である鶴姫との結婚など
叶うはずがなく、二人は逃避行の末、
追いつめられて心中を図った。
一方、「天城山事件」とは、
以下のようなものです。
昭和32年、天城山において
大久保武道と愛新覚羅慧生の二人が
心中を図った。
武道は八戸の豪商の息子、
慧生は清朝最後の皇帝にして、
旧満洲国の皇帝でもあった
愛新覚羅溥儀の姪。
作者・高木は、清の太祖ヌルハチが
明朝の東北国境外に居住した
満州族の出身であることや、
建国後の「清」の名称および北京の宮殿に
「太和殿」「保和殿」など
「和」の一字の入る名称が多いことから、
彼が成吉思汗=源義経の
子孫である仮説を立て、
その上で「天城山事件」は
「椿山心中」の悲恋・悲劇の
「輪廻」であると結論づけているのです。
何とも壮大なロマンを感じさせます。
この、緻密な歴史探究の果てに
用意されたロマンチックな結末こそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
読み終えてしばらく
興奮が冷めませんでした。
ミステリにこんな手法があったとは!
もちろん万人受けするような
作品ではないのかもしれません。
本格探偵小説好きからは「こんなもの、
ミステリじゃないだろう!」と
言われるだろうし、
歴史マニアからは「歴史検証ではなく
単なる想像に過ぎない!」と
罵られる可能性すらあります。
しかし本作品から
放射されている熱量は、
並々ならぬものが感じられるのです。
高木彬光渾身の一作を、
虚心坦懐に味わいましょう。
(2025.5.23)
〔「成吉思汗の秘密」について〕
角川文庫版を所有していますが、
かなり以前に絶版となり、
現在は流通していません。
2005年に光文社文庫より
「成吉思汗の秘密 新装版」が
出版されています。
こちらはまだ流通しています。
〔関連記事:高木彬光作品〕



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