
押し寄せる現実的な恐怖、しかし最後に清涼剤
「黒い小屋」(コリンズ/中島賢二訳)
(「夢の女・恐怖のベッド 他六篇」)
岩波文庫
(「百年文庫093 転」)ポプラ社
おねえちゃんは今、
この家で一人っきりなんだよな。
可愛い声で悲鳴を挙げてみても、
近くには誰もいないしな。
素敵な財布と銀のスプーンを
もらいたいだがね。
欲しい物をもらったら
さっさと引き上げることを
約束するよ、だけど…。
粗筋がわりに掲げた一節は、
父親不在の一人の夜を迎えた「私」に、
二人の悪者が投げかけた言葉です。
いかにも悪党らしい、
狡猾な罠であることは
即座にわかります。
「わかりました」とすぐに扉を開ける
間抜けはいないだろうと
読み手は思うでしょう。
しかし、人は恐怖に支配された中で
選択肢を示されると、
最悪な結果を考えずに
「ましな方」を選び、馬鹿を見るのです。
さて、本作品の主人公「私」は、
この危機にどう立ち回るのか?
〔主要登場人物〕
「私」(ベッシー)
…語り手。
ある夜に起きた冒険の始終を語る。
「父」
…「私」の父。石工。
商談のため、一晩家を留守にする。
ニットン夫妻
…大地主の夫妻。首都に出かけるに
あたり、財布を「私」に預ける。
シフティー・ディック、ジェリー
…「私」の黒い小屋を襲撃した
悪党の二人。
「農園の若旦那」…「私」に求婚する。
本作品の味わいどころ①
読み手の心に事件の予告
読ませるための作品の構成が見事です。
冒頭部には語り手
「私」の述懐が綴られています。
ある程度の年齢となった語り手が、
自らの過去を振り返り、
自分の至らなさが事件を招いたことを、
しみじみと語っているのです。
何かが起こる予感で一杯になります。
いったい何が起こるのか?
読み手の心に事件の予告を行い、
それを受け止める準備をさせておく
手法が効果を上げているのです。
この読み手の心を不安で満たす
「恐怖の事件の予告」こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
押し寄せる現実的な恐怖
悪魔の提案を冷静にはねのけた
「私」でしたが、
当然、恐怖が襲いかかります。
その恐怖は、
ぜひ読んで確かめてください、としか
言いようがありません。
頑丈な造りの小屋であったため、
悪党たちはいろいろな試みを持って
侵入を図ろうとします。
それがじわじわと
押し寄せる恐怖となっているのです。
怪奇幻想小説に見られる超常現象的な
「恐怖」など比ではありません。
実際に起こりうる事件の恐怖が、
「私」の感覚を通して
読み手にも襲いかかってくるのです。
この押し寄せる現実的な恐怖こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
なお、そうした「恐怖」が
描かれることによって、
それに毅然と立ち向かう主人公「私」の
精神的な強さもまた光り輝くのです。
そして主人との信頼関係を重視する
「私」の人柄、
さらには機転を利かせて
窮地を脱する頭の良さも
余すところなく描かれているのです。
こうしたあたりに、作者の
人物設定のうまさが現れています。
本作品の味わいどころ③
最後に清涼剤的逸話挿入
恐怖の一夜の
体験記録で終わっていれば、
本作品はかなり後味の
悪い物になっていたでしょう。
しかしハッピー・エンドが
しっかりと用意されています。
命懸けで主人から預かった財布を
守り通した「私」の人柄に魅せられた
農園の若旦那が求婚してくるのです。
物語は爽やかな余韻さえ残して
美しい結末を迎えるのです。
これによって本作品は
単なるホラー小説などではなく、
人間の強さを讃える
純文学にまで昇華しているのです。
筋書きの終末に準備された、
お口直しの清涼剤のような挿話こそ、
本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
作者・ウィルキー・コリンズ。
今はほとんど
その名を聞くことがなくなりましたが、
ディケンズと同じ時代に生きた
イギリスの作家です。
実は長篇ミステリの方が
得意な作家であり、
代表作「白衣の女」は、
当時大ベストセラーとなりました。
ミステリ作家らしいスリリングな
味わいを持つ本作品ですが、
同時に純文学としての風格も
持ち合わせている傑作短篇です。
ぜひご賞味ください。
〔コリンズ「白衣の女」について〕
宮崎駿の初期の傑作アニメ
「ルパン三世カリオストロの城」は、
江戸川乱歩の「幽霊塔」から
インスピレーションを得たものとして
有名ですが、
乱歩「幽霊塔」は、
明治日本の探偵作家・黒岩涙香の
「幽霊塔」の焼き直し作品です。
そして涙香「幽霊塔」は
A.M.ウィリアムスンの「灰色の女」の
翻案作品です。
その「灰色の女」は
コリンズの「白衣の女」に影響を受けて
執筆された作品なのです。
文学はつながっています。
「白衣の女」も読んでみたいと
思っています。
(2025.6.11)
〔「夢の女・恐怖のベッド 他六篇」〕
恐怖のベッド
盗まれた手紙
グレンウィズ館の女主人
黒い小屋
家族の秘密
夢の女
探偵志願
狂気の結婚
〔「百年文庫093 転」〕
黒い小屋 コリンズ
割符帳 アラルコン
神様、お慈悲を! リール
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