「日本に於けるクリップン事件」(谷崎潤一郎)

これは「食レポ」ならぬ「殺レポ」か?

「日本に於けるクリップン事件」
(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅡ」)中公文庫

クラフト・エビングに依って
「マゾヒスト」と名づけられた
一種の変態性慾者は、
云う迄もなく
異性に虐待されることに
快感を覚える人々である。
従ってそう云う男は、
女に殺されることを望もうとも、
女を殺すことは
なさそうに思える…。

谷崎潤一郎
テーマ別アンソロジーとでもいうべき
「潤一郎ラビリンス」。その
第二巻のテーマ「マゾヒズム小説集」は、
その通りマゾヒストが
主人公となっている作品を集めた、
なかなかにおぞましい
作品集なのですが、
その最後の一品が一風変わっています。

〔主要登場人物〕
⑴クリップン事件
ホーレー・ハーヴィー・クリップン
…イギリスの殺人者。マゾヒスト。
 女優である妻を殺害した
 容疑がもたれた。
コーラ
…クリップンの妻。舞台女優。
 殺害された。
 舞台名はベル・エルモーア。
エセル・ル・ネーヴ
…クリップンの内縁の妻。
⑵日本の事件
小栗由次郎
…マゾヒスト。巧妙に妻を殺害した。
尾形巴里子
…由次郎の内縁の妻。殺害される。

本作品の味わいどころ①
これは「食レポ」ならぬ「殺レポ」か?

一読すると、マゾヒズムが
引き金となった殺人事件の、
和洋を比較したエッセイのような
印象を受けます。
粗筋がわりに掲げたのは、
作品冒頭の一節です。
もはやここからお堅い評論のような
書き出しとなっているのです。

いや、エッセイというよりも
報告書でしょうか。
前半部では、イギリスで起きた
マゾヒスト男性が妻を巧妙に殺害した
「クリップン事件」を説明し、
後半部ではそれを擬えたかのような
日本の殺人事件を紹介するという
レポートのような
体裁となっているのです。
その二つはどのような事件なのか?
それはぜひ読んで
確かめてくださいとしか
言いようがありません。

それはそうと、現代のテレビでは
「食レポ」が流行っていますが、
これは大谷崎による「殺レポ」か?
そんな疑念さえ湧いてきます。
この、エッセイや評論のようにも見え、
「食レポ」ならぬ「殺レポ」のようにも
受け取れるその姿こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
でも細かい経緯は読み手に丸投げ!

その、日本の事件の描写が独特です。
由次郎の妻が
飼い犬に噛み殺された事件が
「事故」で処理されたのち、
「人形を入れた不思議な行李」なるものが
発見された記事を説明、
そして読み手を突き放すように
「私は読者に、これ以上説明する
 必要はあるまい」

なんと、殺害までの細かな経緯は、
読み手の想像力で補わなければならない
しくみになっているのです
(もちろん簡単に理解できるのですが)。
良くいえば「読者参加型の謎解き」、
有り体にいえば「読み手に丸投げ」。
この、細かい経緯を読み手に
丸投げしてくる谷崎の新手法こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
実は谷崎発案の次世代型ミステリ!

しかし本アンソロジーはあくまでも
「マゾヒズム作品集」ではなく
「マゾヒズム小説集」。
本作品もまた創作であるはずです。
だとすれば後半部の日本の事件こそが
谷崎の創作であるはずです。
そしてさらに本作品はエッセイでも
評論でも「殺レポ」でもなく、
新感覚ミステリということに
なるはずです。

実際に起きた事件を紹介する。
それと類似の事件を創作し、
あたかも実際に起きた
事件であるかのように
読み手に報告する。
探偵役がトリックを見破るのではなく、
読み手が自らの想像力を持って
謎解きの最後のピースをはめ込む。
この、谷崎発案の
次世代型新感覚ミステリのスタイルこそ
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

谷崎は本作品以外にも、
乱歩に多大な影響を与えた「途上」
名作「秘密」「金と銀」など、
いくつものミステリ(的作品)を
書き上げています。
しかし純粋なミステリとは
どこかがちがうのです。
それらはすべて強烈な
谷崎臭を発しているため、
「ミステリ」という括りに収まらず、
「谷崎作品」として
まとめるしかないのです。
谷崎がミステリ作家と
見なされることが少ないのは、
そうした作品の強すぎる個性が
原因なのでしょう。
「ミステリ」ではなく
「谷崎作品」の逸品としての本作品、
ぜひご賞味ください。

(2025.6.20)

〔青空文庫〕
「日本に於けるクリップン事件」
(谷崎潤一郎)

〔「潤一郎ラビリンスⅡ」〕
饒太郎
蘿洞先生
続蘿洞先生
赤い屋根
日本に於けるクリップン事件

〔関連記事:谷崎潤一郎作品〕

「AとBの話」
「柳湯の事件」
「途上」

〔中公文庫「潤一郎ラビリンス」〕

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