
味わうべきは文章、情感、作者の感受性。
「ここはとても速い川」(井戸川射子)
(「ここはとても速い川」)講談社文庫
抜けていった乳歯は
昔バザーで買った、
カバン型の指輪ケースに
入れていってんねん。
水色で金色のビーズが付いて、
開く音が気持ちいいやつ。
溜まったんを両手に出して
時々トイレで洗ってるん。
福田先生がこの前授業で
自分の…。
井戸川射子。
1987年生まれの若手作家。
2021年に本作「ここはとても速い川」で
野間文芸新人賞受賞。
翌2022年、
「この世の喜びよ」で芥川賞受賞。
その注目の作家の作品を
読んでみました。
近年の若手作家の作風とは
まったく異なる味わいです。
〔主要登場人物〕
「俺」(今野集)(立山)
…語り手。小学五年生。
児童養護施設「大麦園」で生活。
立山はコードネーム。
ひじり
…「俺」の年下の友達。
園で生活している。
よしいち(高田)、一ノ蔵、龍力
…園の友達。名称はコードネーム。
モツモツ
…園のそばのアパートの住人。
パスタ屋でバイトをしている大学生。
集・ひじりと仲良くなる。
福田先生、上田先生、朝日先生
…園の先生たち。
正木先生…園の教師。産休間近。
優衣先生、光輝先生…教育実習生。
児童養護施設に住む小学校五年生の
男の子が主人公となると、
つらい日々を乗り越えての
成長感動物語という
イメージがありますが、
そうした先入観を持って読み始めると、
期待は見事に裏切られます。
「俺」はこれ見よがしに
不幸が描かれるのでもなく、
かといって終末で
幸せになるわけでもなく、
淡々とした日常が
描かれるだけなのです。
本作品は筋書きで読ませる
小説ではありません。
では、何を味わうのか?
本作品の味わいどころ①
筋書きではなく独特の文章を味わう
一つは、作者独特の文章です。
読みづらいことこの上なしです
(それが悪いことではありません)。
改行がなく、頁にぎっしりと
文章が詰まっていることに加え、
関西弁で書かれてあるため、
文章がなかなか流れていかないのです。
明治から戦後にかけては、
一文が異様に長い作家もいました
(一例を挙げると野坂昭之。
「火垂るの墓」は一文が長く、
悪文の最たるもの)。
しかしそれらはテンポ感があり、
読んでみると
流れがよどむことはないのです。
しかし本作品は
しばしば立ち止まる必要があります。
作者・井戸川射子は小説も書く一方で、
詩人でもあります。
おそらく本作品は
詩の言葉で綴られているのでしょう。
立ち止まりながら
丁寧に咀嚼していくと、
次から次へと豊かな情景が
展開していることに気づかされます。
筋書きは大きく展開はしませんが、
描かれる情景は実に広く深く、
めまぐるしく
繰り広げられているのです。
この、筋書きではなく、
詩の言葉で表現された
独特の文章を味わうことこそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
切り取られ集められた情感を味わう
その
めまぐるしく繰り広げられる世界は、
まるで語り手「俺」の周囲の情景を、
次から次へと切り取って
パッチワークのように
集めたかのようです。
筋書にそって
情景が描かれるのではなく、
「俺」の一瞬一瞬に
見たこと感じたことを、
そのまま切り抜いているのです。
集められた鮮烈な情景の束は、
そのまま「俺」の感じている
「生きづらさ」「小さな喜び」
「やりきれない思い」「冷めた感覚」
「誰かを欲する思い」を
映し出しているのです。
この、切り取られて集められた
情景が伝える主人公の心象風景こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくり味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
鋭く瑞々しい作者の感受性を味わう
その切り取られて集められた情景は、
まるで子どもの感受性を
再現しているかのように感じられます。
だからといって読み手である私たちは
「子どもの目線で描かれた」と
安易に了解してはいけないでしょう。
なぜなら作者もすでに大人。
子どもではなく大人が書いた小説です。
味わうべきは執筆時の
作者の感受性であるはずです。
身のまわりの事象を
余計な雑念を挟まずに、
虚心坦懐に見つめ、
それをそのまま受け取る。
そこに作者の鋭くも瑞々しい感受性が
見えてくるのです。
特に周囲の
大人たち(先生たち)に対しては、
好意も悪意もなく、
見たまま感じたまま(のように)
描かれてあるのは秀逸です。
この、鋭く瑞々しい作者の感受性を
追体験することこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
わずか八十頁程度の作品、
しかも大きな展開の変化が
ないにもかかわらず、
読み味わうためには
大きなエネルギーを必要とします。
これこそが令和の時代の
文学なのでしょう。
若い才能の煌めきこそ、
大いに味わいたいものです。
ぜひご賞味ください。
(2025.7.2)
〔「ここはとても速い川」講談社文庫〕
ここはとても速い川
膨張
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