
石乳の形成過程における自然の静謐さ
「石乳」(シュティフター/藤村宏訳)
(「みかげ石 他二篇」)岩波文庫
わたくしたちの祖国に、
一つの城がある。
この城は、
方々でよく見かけるように、
広い濠をめぐらしていて、
池の中にある島の上に
立っているように見える。
このような
濠でとりかこまれているのは、
普通平地にある城で、
水で敵を…。
粗筋をまとめることができず、
作品冒頭の一節を
抜粋してしまいました。
オーストリアの作家・
シュティフターによる「石乳」です。
これまで本書「みかげ石 他二篇」に
収録されている「みかげ石」「石灰石」と
取り上げてきましたが、
その二作同様、
本作品も穏やかな時間が流れる、
心が洗われるような世界が
広がっています。
〔主要登場人物〕
城主
…城の主。一人の親類もいない。
支配人(「父」)
…城主に見いだされ、城主の財産の
管理人として力を発揮する。
年老いてから結婚する。
「母」
…支配人の妻。
落ち着いた理知的な女性。
ルールウ(ルートミラア)
…「父」と「母」の最初の子ども。
アルフレート、クラーラア、
ユーリウス
…「父」と「母」の子ども。
「先生」
…子どもたちの家庭教師。
「白い外套の士官」
…フランス戦争時、
城主の城に現れた士官。
フランス軍の一人として訪れたが
ドイツ人。
本作品の味わいどころ①
欲を持たない豊かな生き方に触れる
物語前半は
「城主」の生き方が描かれています。
彼は若い時期に結婚を諦め、
独り身のまま
老年にさしかかったのです。
相続した城や領地といった財産を、
彼は自らのためには
ほとんど使いません。
城に住み、
使用人を雇っているとはいえ、
領主としては
慎ましやかな生活といえるでしょう。
しかもその財産を、
次のものに譲り渡すために
親類をくまなく探したものの、
誰も見つからず、
相続人として「皇帝」を指名し、
国に返上する意思を示すなど、
まったく欲の見られない善人です。
しかし彼は心豊かに生きているのです。
彼は丁寧に人選を行い、
財産の管理人として
「支配人」を召し抱えます。
彼もまた欲のない、
役割に忠実な善人なのです。
そして「支配人」は領地の娘と結婚し、
子どもも生まれ、「城主」を含めた
家族ができあがるのです。
物語の主人公「城主」、
そしてそこに集まった人々の、
欲を持たない
豊かな生き方に触れることこそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
優しさを失わない人間の心に触れる
全編が穏やかな筆致で
描かれているため、
大きな展開の変化はないように
感じられる本作品ですが、
実はフランス戦争が
物語後半に波紋を起こすのです。
「城主」の領地にも
フランス軍が侵攻してきます。
「自分たちでできる範囲で
フランス軍を殲滅し、
国のために戦う」と主張する
「城主」のもと、城の人々は
警戒態勢で夜を迎えるのです。
城にもやはりフランス軍らしき
「白い外套の士官」が訪れるのですが、
流暢なドイツ語を話し、
その態度は紳士然としています。
さて、
「城主」や城の人々はどうなるのか?
その点末はぜひ読んで
確かめていただきたいと思います。
そこに描かれている、
戦時にあっても優しさと
人間性を失わない登場人物たちの
心に触れることこそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
誰かへと受け継がれる幸福に触れる
作品終末においては、
物語の主人公はもはや
ルールウへと切り替わっています。
彼女は戦時の夜に訪れた
「白い外套の士官」に
密かな思いを抱いていたのですが、
その夜から数年後、
再び二人は再会します。
「城主」は戦時の夜以前に
すでに遺産の相続人の名前を
「皇帝」から「ルールウ」へと
書き換えているのです。
「城主」の遺産、そして
「支配人」の築き上げた家族の温かみは、
そのまま若い二人へと
受け継がれていくのです。
自分一人のもので終わらず、
ほかの誰かへと受け継がれていく幸福、
それこそが真の幸福であり、
それに触れることこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
シュティフターの作品は、とかく
「きれい事」と受け止められることが
多いかと思われます。
しかしながらそこには、
シュティフターの人間愛が溢れるほどに
表現され尽くしているのです。
その世界をかみしめるようにして
味わうことこそ
読書の喜びというものです。
若い方々に、ぜひ
読んでいただきたい作家の一人です。
ご賞味あれ。
〔表題「石乳」について〕
「みかげ石」「石灰石」と同様、
岩石名を表題にしてあるのですが、
理科教師である私も
「石乳」とは何か知りませんでした。
調べてみると
「石乳(Bergmilch)」とは、
炭酸カルシウムを主成分とした
堆積岩であり、石灰岩の洞窟内で、
地下水が岩の割れ目を通って
炭酸カルシウムを沈殿させることで
形成されるものであるとのことです。
石灰岩洞窟の天井から下がっている
白い石のつらら状のものなのでしょう。
筋書き自体には「石乳」はおろか
石灰岩さえ登場しません。
おそらくは長い年月をかけて
静かに進行する石乳の形成過程における
自然の静謐さを、人間の内面の
穏やかさ、優しさ、温かさの象徴と
見立てたものと思われます。
あるいは
フランス戦争がもたらした傷跡も、
時間をかけて
人々が心を通わせることにより、
その痛みを乗り越え、
和解できるのだという
作者のメッセージなのかもしれません。
いずれにしても深く考えさせられる
表題です。
(2025.7.30)
〔シュティフターの作品について〕
現在流通しているのは以下のものです。
絶版扱いですが、古書をあたれば
以下のものも入手可能です。
「みかげ石 他二篇」(岩波文庫)
「森の小道・二人の姉妹」(岩波文庫)
「晩夏(上)」(ちくま文庫)
「晩夏(下)」(ちくま文庫)
「作品集第3巻 森ゆく人」(松籟社)
〔関連記事:ドイツ語圏の文学〕




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