
あり得ない設定、でも十蘭なら
「黒い手帳」(久生十蘭)
(「久生十蘭短篇選」)岩波文庫
自分の机の上にいま
一冊の手帳が載っている。
一輪挿しの水仙が
そのうえに影を落としている。
一見、変哲もない
古手帳にすぎぬが、この中には、
ある男の不敵な研究の
全過程が書きつけられてある。
それは、ほとんど象徴的とも…。
久生十蘭の短篇作品の一篇です。
幅広いジャンルにまたがる
十蘭の小説世界。
本作品は多くの場合、ミステリに
カテゴライズされる作品ですが、
さて、起きる事件は?
どんな犯罪が?
探偵は誰?と思い読み進めると、
まったく既存のミステリに
当てはまらないのです。
〔登場人物〕
「自分」
…語り手。パリの粗末なアパートの
五階に住む。
「彼」
…「自分」と同じアパートの六階の住人。
賭博の研究に十年の歳月をつぎ込み、
その成果を黒い手帳に記す。
「夫」「妻君」
…「自分」と同じアパートの四階の住人。
留学中だったが、突如として送金が
打ち切られ、貧困に突き落とされる。
本作品の味わいどころ①
あり得ない設定、でも十蘭なら
まず、設定が異様です。
登場人物は上に掲げた四名。
しかも名前は
誰一人与えられていません。
すべて日本人ですが、舞台はパリ。
しかも場末の薄汚いアパートの
四・五・六階にそろって住んでいる
(時代は明治、まだ渡仏する日本人も
少なかったであろうに、
なぜそこに偶然三世帯が集まった?)。
六階には賭博の研究に十年を費やして、
ついに必勝の公式を発見した男が
(ルーレットに必勝法が
あろうはずがないのに!)。
四階にはアメリカ生まれの日本人夫婦、
しかもどちらも音楽家の卵、
ハワイのパトロンから送金を受けている
(そのような
都合のいい話があるのか?)。
冷静に考えれば
「あり得ない」ことだらけなのですが、
十蘭の筆にかかると、
なぜか作品世界に読み手は
次第に引き込まれていくのです。
この、あり得ない設定でありながら
無理矢理引きずり込まれる
十蘭の世界こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
観察者から被害者、そして次は
ミステリですから当然犯罪が起きます。
というか起きる予兆が現れます。
パトロンの破産に伴って
送金が止まった四階の夫妻は、
窮余の策として
ある犯罪を計画するのです。
「彼」の持つ
ルーレット賭博必勝法を書き記した
「黒い手帳」を手に入れるため、
「彼」を殺害しようとするのです。
どんな犯罪が展開するのか?
そう思って読み進めると
肩透かしを食らいます。
問題は犯罪そのものではなく、
「自分」の立ち位置なのです。
その計画を知った「自分」は、
四階と六階の人間の
どちらにも立たずに、
殺人の観察者に徹するのですが、
その立場は変転します。
観察者だった「自分」は、
やがて殺人計画を知っていることを
夫妻に気づかれ、
今度は「彼」と一緒に命を狙われる立場、
つまり被害者(というか被害予定者)と
なるのです。
それだけでは終わりません。
最後には…。
その結末は
ぜひ読んで確かめてください。
この、予想外の方向へと進展する
語り手「自分」の立ち位置こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
やはり一筋縄でいかない世界が
問題は本作品が一人称で綴られた
作品であるということです。
語り手「自分」の立場の変転は、
そうした一人称告白体による
「読み手のミスリード」の効果なのです。
そして一人称である以上、
そこに書かれてある内容は
事実だけとは限らないのです。
結末で「彼」が「自分」に懇願したことが
事実でなかったとしたら?
黒い手帳を処分するという
「自分」の記述が嘘だったら?
そこに存在すべき「犯罪」は、
また違ったものとなってくるはずです。
読み手にそのような想像まで
させてしまう
一筋縄ではいかない十蘭世界
そのものこそ、本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
やっかいなことに、
問題はもう一つあります。
作品のテキストです。
改稿癖の激しい十蘭の作品は、
初稿版と最終版との
相違が大きいのです。
岩波文庫に収録されているのは
戦前発表の初稿版。
下に示した青空文庫は
戦後の改訂版です。
粗筋代わりに抜き出した冒頭部分は、
青空文庫は次のようになります。
黒いモロッコ皮の表紙をつけた
一冊の手帳が
薄命なようすで
机の上に載っている。
一輪揷しの水仙がその上に
影を落している。
一見、変哲もない
この古手帳の中には、
ある男の不敵な研究の全過程が
書きつけられてある。
それはほとんど…。
〔青空文庫〕
「黒い手帳」(久生十蘭)
全文に渡って、
このような改訂が施されているのです。
初稿版と最終版、
それぞれに異なる味わいと良さがあり、
優劣はつけられません。
それも含めて、
味わいどころの多い久生十蘭作品です。
ぜひご賞味ください。
(2025.8.1)
〔「久生十蘭短篇選」岩波文庫〕
黄泉から
予言
鶴鍋
無月物語
黒い手帳
泡沫の記
白雪姫
蝶の絵
雪間
春の山
猪鹿蝶
ユモレスク
母子像
復活祭
春雪
解説
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