
異質な人たちとの素敵な邂逅
「海」(小川洋子)新潮文庫
婚約者の泉さんの
実家を訪れた「僕」。その晩、
「僕」は彼女の「弟」の部屋で
寝ることになる。
楽器奏者だと「弟」は告げるが、
部屋には音楽に関わるものは
何一つ見当たらない。
その楽器は
「メイリンキン」なのだと
「弟」はいうが、それは…。
(「海」)
〔「海」主要登場人物〕
「僕」
…語り手。中学校技術科教師。
結婚の承諾を得るため
婚約者の実家を訪問する。
泉さん
…「僕」の婚約者。中学校体育教師。
「小さな弟」
…泉さんの弟。「メイリンキン」なる
楽器を奏でるのだという。
「お父さん」
…泉さんの父親。保健所の衛生監察官。
「お母さん」…泉さんの母親。
「おばあさん」…泉さんの祖母。
小川洋子の短篇作品集です。
共通のテーマで編まれた
連作短篇集というわけでは
なさそうです。
七篇中「銀色のかぎ針」
「缶入りドロップ」は
短篇というよりも掌篇であり、
やや毛色が違っています。
残り五篇、
「海」「風薫るウィーンの旅六日間」
「バタフライ和文タイプ事務所」
「ひよこトラック」「ガイド」は、
緩やかな共通性を持った作品群であり、
これらを中心に
味わいどころを考えていきます。
パックツアーのウィーンの旅。
「私」はホテルで
六十代半ばの琴子さんと
同室になる。
彼女は四十五年間
音信不通だったかつての恋人に
会いに行きたいのだという。
養老院を訪ねた二人だったが、
目的の「恋人」は老い衰えて
眠っていた…。
(「風薫る
ウィーンの旅六日間」)
〔「風薫るウィーンの旅六日間」
主要登場人物〕
「私」
…語り手。二十歳の記念旅行として
ツアーに参加。
琴子さん
…「私」と同室になった老人。
音信不通となった恋人を訪ねる。
ヨハンさん
…琴子さんのかつての恋人。
オーストリアに帰国して以来、
音信が途絶えていた。
養老院に入院中。
意識がはっきりしない。
ジョシュアさん
…ヨハンさんの隣のベットの老人。
〔「海」収録作品〕
⑴海
⑵風薫るウィーンの旅六日間
⑶バタフライ和文タイプ事務所
⑷銀色のかぎ針
⑸缶入りドロップ
⑹ひよこトラック
⑺ガイド
インタビュー
解説 千野帽子
「私」の勤める
バタフライ和文タイプ事務所。
そこには近くの大学医学部から
多くの論文が持ち込まれている。
あるとき「私」の打った
「糜」の活字が欠けてしまう。
所長は三階の活字管理人に
持って行けという。
活字管理人とはいったい…。
(「バタフライ
和文タイプ事務所」)

〔「バタフライ和文タイプ事務所」
主要登場人物〕
「私」
…語り手。
和文タイプを打つ仕事に就く。
「活字管理人」
…和文タイプ事務所の職員。
三階の倉庫が仕事場。
「所長」…事務所所長。
本作品の味わいどころ①
異質な人との素敵な邂逅
五篇に共通するのは、
どこかちょっと変わった人との出会いが
描かれていることでしょう。
整理すると以下のようになります。
⑴「私」と「小さな弟」
⑵「私」と琴子さん
⑶「私」と「活字管理人」
⑹「男」と「少女」
⑺「僕」と「男」
⑴の「小さな弟」は、
サイダーを飲み、
動物のビデオを観てからでないと
安眠できないという
特異な生活習慣を持っているだけでも
面白さを感じるのですが、
さらに「メイリンキン」なる楽器を
奏でるのだというのですから、
普通とはちょっと異なります。
⑵の琴子さんは、
45年間も音信不通の
オーストリアの男性に会うために
パックツアーに参加したという、
こちらも異質です。
いったい何のために?
「私」も読み手もその疑問を抱えたまま
読み進めることになります。
⑶では、そもそも「活字管理人」とは何?
そこからすでに
大きな違和感を抱えざるを得ません。
「私」は「活字管理人」との接触の中から、
それまで感じたことのない
感覚を得るのです。
⑹は
口のきけなくなった「少女」との出会い。
この「少女」も、
いろいろなものの「抜け殻」を
「男」にプレゼントするという
変わり種です。
しかしその出会いは
爽やかで清々しいものです。
⑺の「男」の職業は何と「題名屋」。
こちらもあり得ない職業
(もちろん作者の創作)なのですが、
「僕」と「男」の一日だけの冒険は、
素敵な思い出として結実します。
この異質な人間との素敵な邂逅こそ、
本作品集の
第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
高松行きの
マリンライナーに乗った「私」。
向かいの席に座った老婦人は
編み物を始める。
「私」は母方の祖母の
編み物が得意だったことを
思い出す。
一本の毛糸から、
どうしてそんなにきれいな模様が
描き出せるのか、
不思議だった…。
(「銀色のかぎ針」)
〔「銀色のかぎ針」登場人物〕
「私」
…語り手。マリンライナーに乗る。
「老婦人」
…「私」の向かいの席に座った老婦人。
「祖母」
…「私」の母方の祖母。
編み物が得意だった。
男は四十年間、
バスだけを運転してきた。
六十を過ぎた五年前からは、
幼稚園バス。
子供たちは絶えず動き回り、
大きな声を出し、
少しも油断がならない。
まるでそれが本当の
名前でもあるかのように
「バスのおじちゃん」と
男を呼び…。
(「缶入りドロップ」)
〔「缶入りドロップ」登場人物〕
「男」…幼稚園バス運転手。
本作品の味わいどころ②
ほんの少しだけ違う世界
その異質な人が作り出す空間も
また異質です。
日常とはほんの少しだけ違う世界が、
五篇それぞれにおいて
創り出されているのです。
⑴の「小さな弟」の部屋と
そこで過ごす時間は、
日常から少しだけずれています。
「私」は結婚承諾を得るという
きわめてリアルな現実と向き合うために
婚約者の家を訪れたのに、
その晩に待っていたのは
この非日常の時空間です。
⑵は、貯金をはたいて参加した
ウィーンの旅ですが、
「私」は琴子さんに付き合って
意識のほとんどないヨハンさんの
最期を看取ることになるのです。
夢のような時間から
厳しい瞬間に立ち会わされ、
ところが最後に大どんでん返し。
「私」も読み手も
不思議な体験をすることになるのです。
⑶はもはや異世界に入ったような
錯覚を起こします。
タイプライターの活字という
鉛色一色の世界であるはずが、
次第に「色」を帯びてきます。
もちろんこの場合の「色」は、
「color」ではなく、
「sensual」「seductive」なのですが。
⑹もまた「男」と「少女」の周りには、
音のない空間が広がります。
その中で意思を伝え合う二人の姿が
素敵です。
⑺は現実から少しだけ
アクシデントに見舞われるといった
あたりでしょうか。
この作品が最も素敵に輝いています。
この、それぞれの作品に展開している、
日常とはほんの少しだけ違う
世界そのものこそ、本作品集の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
「男」の下宿先の大家には、
六歳になる孫娘がいた。
口がきけないらしいその少女は、
何かの抜け殻を持ってきては
「男」にプレゼントするのだった。
ある日、
トラックに載せられていた、
縁日で売られる着色ひよこに
少女は興味を示し…。
(「ひよこトラック」)
〔「ひよこトラック」登場人物〕
「男」
…定年間近のホテルのドアマン。
新しい下宿先で少女と出会う。
「未亡人」
…「男」の下宿の大家。
「少女」
…「未亡人」の孫娘。
口がきけなくなった。
本作品の味わいどころ③
穏やかな海のような時間
それでいて、すべての作品において、
穏やかに時間が流れすぎていきます。
まるで凪の時間の
静かな海に似ています。
間に挿入された掌篇⑷⑸のおかげで、
作品集全体を通しても、
たおやかな時間の経過を
感じられるようになっているのです。
この海のような静謐な時間を各作品の
語り手とともに過ごすことこそ、
本作品集の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
「ママ」のツアーに同行した「僕」。
「ママ」は公認ガイドだった。
川下りの遊覧船の中で、
「ママ」は一人
乗り遅れた客がいたことを知る。
「僕」はその解決方法として、
次の船着き場で自分が降り、
タクシーで出発地を
探すことを提案する…。
(「ガイド」)
〔「ガイド」主要登場人物〕
「僕」
…語り手。小学生。
事情があって「ママ」のガイドする
ツアーに同行する。
「ママ」
…「僕」の母親。母子家庭。
公認観光ガイド。
「小母さん」
…シャツ屋の小母さん。
「ママ」不在のときの「僕」の相談役。
「男」
…ツアーに参加していた老人。
職業は「題名屋」。
遊覧船に乗り遅れる。
大きな展開の変化があるわけではなく、
語り手が出会う人物が
極端な変人というわけでもなく、
本作品集から受ける印象は
薄味といえなくはありません。
しかしだからこそ、
何度でも読み返したくなる
味わい深さがあるのです。
小川洋子の素敵な作品集「海」を、
ぜひご賞味ください。
(2025.9.3)
〔関連記事:小川洋子の作品〕
「バタフライ和文タイプ事務所」
「最果てアーケード」
「最果てアーケード」(漫画版)
「ミーナの行進」
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