「青列車の秘密」(クリスティ)

欲望渦巻く富裕層社会の入り口としての「青列車」

「青列車の秘密」
(クリスティ/青木久恵訳)
 ハヤカワ文庫

青列車のコンパートメント内で
資産家令嬢ルースが殺害される。
超高価な宝石が
奪われていたため、
当初は列車強盗の仕業と
思われた事件だったが、
車中には離婚でもめていた
彼女の夫・デリク、
そしてポアロもまた
乗り合わせていた…。

クリスティ
ポアロ・シリーズ第5作です。
列車内の殺人といえば
「オリエント急行殺人事件」ですが、
こちらは「青列車」
つまりブルー・トレインです。
さて、どんな事件が起き、
ポアロはそれをどう解決するのか?

〔主要登場人物〕
エルキュール・ポアロ

…引退した私立探偵。乗車していた
 青列車内での殺人事件を捜査する。
ルーファス・ヴァン・オールディン
…アメリカの富豪。宝石「火の心臓」を
 闇で購入し、娘に贈る。
 殺人事件の捜査をポアロに依頼。
ルース・ケタリング
…ルーファスの娘。28歳。
 青列車内で何者かに殺害される。
アルマン・ド・ラ・ローシュ
…ルースの愛人。かつてルースとの仲を
 ルーファスに引き裂かれている。
エイダ・メイスン
…ルースの使用人。
デリク・ケタリング
…ルースの夫。
 放蕩し、借金がかさんでいる。
ミレーユ
…デリクの愛人。有能なダンサー。
ナイトン
…ルーファスの秘書。
ゴービー
…ルーファスの雇った情報屋。
キャサリン・グレー
…青列車内でルースと知り合う。
 33歳の理知的な女性。
ジェイン・ハーフィールド
…キャサリンを雇っていた老婦人。
 キャサリンに遺産を残して死去。
アメリア・ヴァイナー
…キャサリンを村に呼び戻した老婦人。
ロザリー・タンプリン
…キャサリンの従姉妹。
 キャサリンの受け取った遺産の
 おこぼれに預かろうと画策する。
チャールズ・エヴァンス
…ロザリーの夫の青年。
レノックス・タンプリン
…ロザリーの娘。
イポリート・フラヴェル
マリー・フラヴェル

…アルマンの使用人夫婦。
ボリス・イヴァノヴィッチ
オルガ・デミロフ

…ルーファスに「火の心臓」を
 売り渡した二人組
侯爵(ル・マルキ)
…謎めいた白髪頭の男。
 パポポラスに宝石売買の交渉をする。
 チンピラ二人に宝石購入直後の
 ルーファスを襲撃させる。
ディミトリアス・パポポラス
…骨董商。
 闇ルートでの宝石の売買を手がける。
ジア
…パポポラスの娘。
コウ
…警視。事件を捜査する。
カレージュ
…治安判事。事件を捜査する。

〔事件の概要〕
ルース・ケタリング殺人事件
・ルース、青列車内で殺害される。
 死体は絞殺の上、顔面を殴打。
・ルースの持参していた
 宝石「火の心臓」の紛失が確認される。

〔事件の舞台・青列車まで〕
・事件関係者はロンドン・
 ヴィクトリア駅発の汽車に乗り、
 ドーバーへ、ドーバーから客船で
 海峡を渡りカレーへ、
 カレー発の青列車に乗車した。

〔事件の経緯〕
・ルース、メイスンを連れて
 青列車に乗車。
・ルース、キャサリンと知り合い、
 自室に招き相談。
・キャサリン、ポアロと知り合う。
・ルース、メイスンを
 リヨン駅で降車させる。
・朝、ルースの死体が発見される。
・青列車、ニース駅到着。

本作品の味わいどころ①
閉鎖空間としての青列車の妙

殺人の舞台は青列車。
作中には詳しく
記されてはいないのですが、
これは正式には「カレー地中海急行
(Calais-Méditerranée Express)」と
呼ばれ、1886年から2003年まで
運行されたものです。
ル・トラン・ブルー(Le Train Bleu)という
愛称(1948年からは正式名称となる)で
親しまれていました(ゆえに「青列車」)。

日本の一般庶民からすれば、
列車とは大多数が
同じ空間にひしめき合うようにして
乗り込むものなのですが、
この「青列車」はそうではありません。
基本的には豪華寝台特急であり、
ファーストクラス専用編成なのです。
つまり、食堂車や
個室寝台(コンパートメント)が中心で、
二等・三等といった一般客向けの車両は
連結されていません。
上流階級や富裕層のための
「走るホテル」として
設計されたものなのです。

本作品の殺人は、
まさにこのコンパートメント内で
起きたものであり、
閉鎖空間(密室ではない)での
殺人ということになるのです。
殺人を実行できる人間は限定的です。
怨恨等の有目的であれば
限られた乗客の誰かであり、
そうでなければ停車駅における
行きずりの強盗しか
考えられないのです。
青列車には被害者の夫も同乗していて、
しかも離婚調停中。
動機は十分です。
簡単に解決しそうな事件なのですが、
本作品は440頁超。
かなりの道のりを要するのです。
この、閉鎖空間としての青列車という
舞台設定こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
読み手のミスリードを誘う罠

ただし舞台の青列車は
117頁最後の二行から
131頁最終行までの
十数頁だけなのです。
117頁以前は
その背景となる人間関係の紹介、
そして131頁以降は
その後の関係者の動きと
ポアロの捜査が描かれるのです。
その関係者の人間関係の濃密なこと。
殺害されたルースを中心軸として、
父親ルーファスの関係者
(仕事のみならず闇取引も含め)、
夫デリクおよび
愛人ド・ラ・ローシュ伯爵の周辺人物、
そこにキャサリンの周囲の人々が
複雑に絡んでくるのです。

当然、そこには
読み手による犯人捜しを困難にさせる
罠がいくつも仕掛けられています。
夫デリクにも動機があれば、
愛人ド・ラ・ローシュが
犯人であることを示す遺留品も
用意されています。
そして読み進めると、ポアロは
そのいずれかでもない犯人を
追っていることが明らかとなるのです。

そうした中で、
キャサリンは社交界入りをあきらめ、
イギリスの片田舎へと引き返します。
事件の観察者たる人物の途中退場。
まさか真犯人は…。
この、読み手のミスリードを誘う
罠の数々こそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
キャサリンの存在とその視点

事件の現場は青列車ですが、
その後の展開の舞台は
南フランスのリースとなります。
当時の南フランス
(および地中海周辺)は、
寒冷なイギリスの
格好の避寒地となっており、
富裕層がバカンスのために
集まっていました。

このリースは青列車に乗り込んでいた
キャサリンの目的地でした。
ハーフィールド夫人に雇われていた
彼女は、夫人の死後、
少なからぬ遺産を受け取り、
富裕層の仲間入りをするのです。
彼女の目指したのは
社交界へのデビュー。
そのためリースに住む
タンプリンのもとへ、
彼女が遺産の分け前を狙っていることを
知りながら出かけたのです。

彼女がリースで見たものは、
金銭目当ての打算的結婚、
欲得ずくの愛人関係、
遺産を狙う親族等々。
富裕層専用の青列車内で起きた事件は、
その富裕層に属する人間たちの卑しさを
これでもかというほど
彼女に見せつけてくるのです。
だからこそ、彼女は
途中退場せざるを得なくなるのです。
彼女は読み手のミスリードを誘う
罠の一つである以上に、
富裕層の欲望の異様さを
一般層の読み手に伝えるための
スコープとして機能しているのです。
この、
キャサリンの存在とその視点こそ、
本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

表題は「青列車の秘密」
(The Mystery of the Blue Train)。
列車そのものに秘密はありません。
おそらくは「青列車」こそが
事件の深層にある
「欲望の渦巻く富裕層社会」の
入り口であったということの
謎かけなのでしょう。
「オリエント急行」とは
まったく異なるテイストの本作品、
「オリエント急行」に勝るとも劣らない
傑作ミステリです。
ぜひご賞味ください。

(2025.12.12)

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