「おくま嘘歌」(深沢七郎)

深沢の見た庶民の「すさまじさ」

「おくま嘘歌」(深沢七郎)
(「庶民列伝」)中公文庫
(「百年文庫092 泪」)ポプラ社

おくまは今年63で、
数えどしなら64だが、
「いくつになりやすか?」と
聞かれると、
「そろそろ、70に届きやアす」と
言って、数えどしでは66にも、
67にもなるように
思い込んでいた。
毎年々々としの数がふえるのは
悪事の数が重なる…。

深沢七郎の連作短編集「庶民列伝」の
第一作を飾るのが、
本作「おくま嘘歌」です。
主人公・おくまという老婆
(現代の感覚ではまだ若いが)の
「生の強靭さ」が、
ドラマチックな虚飾を排して
描かれています。
おそらく実在のモデルが
存在したのでしょう。
深沢はそれをただ「そのまま」に
写し取っています。
「庶民列伝」のあとがきで、
深沢は「庶民」を「すさまじい」と
表現しました。
その言葉の真意こそが、
本作の最大の味わいどころです。

〔主要登場人物〕
おくま

…63歳の女性。本名は「つば」。
 息子一家と同居。
勝雄…おくまの息子。
安雄…おくまの孫。勝雄の息子。
サチ代…おくまの娘。
シゲオ…おくまの孫。サチ代の子ども。

本作品の味わいどころ①
「そのまま」の放つ圧倒的迫力

本作品は、おくまという
「小さな嘘」をつく老婆を巡る物語です。
その「嘘」は
自分を飾り立てるためのものではなく、
周囲への気遣いや、
自らの役割を全うしようとする
意志から漏れ出るものです。
冒頭、63歳でありながら
「70に手が届く」と嘯くのも、
老いによる厄介者としての立場を
あらかじめ引き受けてしまおうとする、
彼女なりの処世術といえるでしょう。

おくまは平凡な働き者であり、
家族のために尽くし続けます。
十分役に立っているにもかかわらず
「ワシなんか、厄介者」とこぼし、
娘の家事を助けに行く際も
「孫の顔が見たくて」と口実を作る。
成長した孫を肩の痛みに耐えながら
おんぶし続け、
疲れ果てて帰宅してもなお、
嫁の家事を肩代わりする。
そして最期、死の間際にあっても
「もうすぐよくなって働ける」と
嘘をつくのです。

作者・深沢は、
こうした「目立たない善良さ」を
感傷的に美化することも、
冷笑的に突き放すこともせず、
ただ「そのままの姿」として提示します。
そこにこそ、深沢が捉えた
「庶民のすさまじさ」が
宿っているのです。

本作品の味わいどころ②
綺麗事ではない「生命の真実」

死の淵で放たれた
「ああ、よくなるさよオ、よくなって、
蕎麦ア拵えたり、
サチ代のうちへも遊びにいくさ」、
つまり「まだまだ働ける」という嘘。
彼女にとって、働くことは
「生きること」そのものでした。
そうでなければ、
嘘をついてまで労働に固執する生き方の
説明がつきません。

これは深沢自身の
労働観の投影でもあります。
深沢は文壇の社交を嫌い、
山梨での農耕や
「ラブミー農場」での共同生活、
団子屋の経営など、
常に「生活者」として
肉体を動かす生き方を選んだ
作家でした。
それゆえ彼は
「働くことの尊さ」だけでなく、
その過酷さや残酷さをも、
他のどの作家よりも熟知していました。

おくまの生き方には、
綺麗事ではない「力強さ」があります。
単に今日を生き延びるという
目的のために、ただ黙々と働く。
その姿は、
文化や教養で着飾った知識人よりも、
はるかに「生物として純粋で強い」と
深沢は確信していたはずです。

本作品の味わいどころ③
当事者的視点での「庶民の姿」

多くの作家が庶民を
「観察対象(題材)」として扱いますが、
深沢は違います。
彼自身が庶民の生活の中で揉まれ、
傷つき、笑い、怒りながら生きてきた
当事者です。
したがって、おくまは
「観察される客体」ではなく、
「同じ大地に立つ同志」として
描かれています。

その筆致には、
文学的な脚色や技巧を凝らそうという
意図が微塵も感じられません。
「語りのリズム」や「生活者の言葉」を
重視する深沢にとって、
この朴訥で淡々とした語り口こそが、
自身が「生活者」として書いた
証なのです。

「庶民列伝」のあとがきに記された
「すさまじさ」とは、
庶民の「剥き出しの生」に対する、
畏怖と共感の入り混じった賛辞です。
読後、胸に残る底知れぬ「生」の匂い。
それこそが、深沢が描き出そうとした
庶民の真実の姿なのです。
ぜひ、その圧倒的な生命力に
触れてみてください。

(2026.5.20)

〔「庶民列伝」中公文庫〕
「庶民列伝」序章
おくま嘘歌
お燈明の姉妹
安芸のやぐも唄
サロメの十字架
べえべえぶし
土と根の記憶
「庶民列伝」あとがき

〔「百年文庫092 泪」ポプラ社〕
おくま嘘唄 深沢七郎
洗骨 島尾ミホ
連笑 色川武大

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