
父親不在から見える、作品のもう一つの顔
「大根の葉」(壺井栄)
(「百年文庫073 子」)ポプラ社
健のお母さんは、
今夜また赤ん坊の克子をつれて
神戸の病院へ
行くことになっている。
健はどうにかして
お母さんについて神戸へ
行きたいと思うのだったが、
お母さんはどうしても、
よい返事をしてくれない。
部屋いっぱいに並べられた…。
名作「二十四の瞳」で知られる
壺井栄の短篇作品です。
先天性白内障で視力のほとんどない
妹の入院に伴い、
祖母の家に預けられた
五歳の子どもの様子を
ありのままに綴ったような作品です。
〔主要登場人物〕
健
…五歳の子ども。妹の入院のため、
祖母の家に預けられる。
克子
…健の妹。二歳。先天性白内障。
「お母さん」
…健・克子の母親。克子の入院に
付き添い、神戸へ向かう。
「お父さん」
…健・克子の父親。遠隔地での
仕事のため、家に戻ることが少ない。
「おばあさん」
…健の父方の祖母。健を預かる。
太郎、秀子…健のいとこ。
本書の巻末解説には、
佐多稲子に童話を書くように勧められ、
坪田譲治の作品を研究し、
「大根の葉」を執筆した、とあります。
調べてみると、
デビュー作ではないものの、
それに近い初期作品のようです。
視力に障害のある幼い娘・克子の治療に
奔走する「お母さん」の必死さと献身、
さびしさや不満を抱えながらも
成長する健の心、
医者よりも「お金のかからない信心」に
すがろうとする祖母の姿勢など、
本作品は、貧しい家庭の中で、
子どもを思う親の愛情と、
家族それぞれの立場や思いのずれが
テーマの作品だと考えられます。
これらが一つの家庭の中で
ぶつかり合い、
貧困・病気・障害のなかに置かれた
「弱い立場の人びと」が
どう生きようとするかという、
壺井作品全体に通じるテーマが
初期作品から早くも現れているのです。
児童文学としての味わいどころは
そのように多岐にわたるのですが、
大人の目線で読んだとき、
気になるのは「お父さん」の
存在(というよりも不在)です。
主人公である健の「お父さん」は、
仕事で家になかなか戻らないことが
書かれてあります。
家庭の一大事であるとき、
帰ってくることも仕送りすることも
できない父親とは
いったいどういうことなのか?
「出稼ぎ」や「家出」かと思いましたが、
それではつじつまの合わないところが
多々あるのです。
一つはこの父親が
「大学卒」であることです。
仕事にあぶれているということは
考えにくいのです。
また、父親の実家と母親との関係が
比較的良好であること、
義兄が弟のことを
悪く言っていないことなどを
勘案した場合、
「家出」などでもなさそうです。
父親の事情を推察できる状況証拠は
何一つ描かれていないのです。
そうなると時代背景や作者の周辺から
推察するしかありません。
壺井栄の夫・繁治は、
プロレタリア文学運動の中心人物であり
治安維持法違反で複数回
逮捕・検挙・投獄されています。
健の「お父さん」のモデルは、
実は作者・栄の夫・繁治である可能性が
考えられるのです。
「お父さん」は家庭の危機に、
「帰ってこない」のではなく
「帰ってこられない」のだと考えると、
すべての状況が説明できます。
もっとも栄は
実子がありませんでしたので、
健の「お母さん」のモデルは
また別にあったと考えるべきです
(調べてみると、栄の妹・
貞枝の子どもがモデルであるという
資料が見つかりました)。
本作品が発表されたのは
1939年(昭和14年)。
治安維持法下であり、
政治犯の家族を描くことは検閲に触れる
可能性が極めて高かったはずです。
また、本作品は
児童文学として描かれたため、
子どもが理解できない大人の事情は
書かないのが一般的です。
そもそも子どもに寄り添った目線で
作品を書き上げるというのが
壺井栄の作風です。
そうしたことから「父親不在の理由」は
描かれなかったものと思われます。
そうなると本作品は、
「事実をそのまま書かない」
児童文学でありながら、
しかし「生活の真実を隠さない」
大人のための文学という、
独特の二重構造を持っているのです。
壺井栄の作品は、表面の素朴さの奥に、
生活史・時代背景・個人的体験が
複雑に折り重なっていて、
読み込むほどに
新しい層が見えてきます。
「昭和初期の子ども向け作品」
などといっていられません。
その味わいを、ぜひご賞味ください。
〔夫・繁治が「モデル」だとすると〕
本作品を読むかぎり、
「出稼ぎ」や「家出」ではなさそうだと
書きました。
ところが本作品発表前後の
栄と繁治の生活を調べてみると、
意外なことがわかりました。
検挙されていたのは事実ですが、
繁治は実は本作品発表の二年前、
栄とも親しい中野鈴子という女性と
不倫関係に落ちていたのでした。
栄は大きなショックを受けるのですが、
多くのものを与えてくれた夫婦の絆を
守るという選択をしたようです。
もしかしたら健の「お父さん」も
不倫がもとで…。
いやいや、そうではないはず…、
と信じましょう。
(2026.6.8)
〔青空文庫〕
「大根の葉」(壺井栄)
〔参考資料〕
「壺井栄年譜」
〔関連記事:壺井栄の作品〕
「二十四の瞳」
〔「百年文庫073 子」ポプラ社〕
大根の葉 壺井栄
出産 二葉亭四迷
子を護る 葉山嘉樹
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