「夢へ翔けて」(ミケーラ・デプリンス)

「夢を追いかけることの大切さ」だけではない価値

「夢へ翔けて」
(ミケーラ・デプリンス/田中奈津子訳)
 ポプラ社

「邪悪」で「冷たい」
オディールになる前は、わたしは
ミケーラ・デプリンスという
名前で、ミケーラになる前は、
マビンディ・バングラだった。
これは、わたしが戦争孤児から
バレリーナへ翔けあがった
物語である。
アフリカに住んでいた…。

先日取り上げた「希望の図書館」に続き、
ポプラ社から刊行されている
「ポプラせかいの文学」シリーズの
一つを読みました。
「子ども向き」と侮るなかれ。
大人の読み手であっても
いろいろなことを考えさせられる、
素敵な一冊です。
やはり酒井駒子の表紙装丁画は
良書の目印となっています。

テーマはもちろん
「逆境に負けずに夢を追いかけることの
大切さ」ということだと思います。
日本ではこうしたテーマが
尊ばれる傾向があり、
推薦図書や読書感想文の定番本として
扱われてきた経緯があります。
戦争孤児という不幸な境遇、
白斑症という皮膚の病気によるいじめ、
孤児院での虐待、
渡米後の人種差別など、
数多くの困難を、
想像力と前向きな姿勢で
乗り越えていく姿は、
多くの子どもたちに自己肯定感を
与えるはずです。
ただし、本書に書かれてあることは
それだけにとどまりません。

一つは、過酷な現実を伝える
「証言」としての価値の高さです。
冒頭で描かれるシエラレオネ内戦の
描写は生々しいかぎりです。
目の前で教師が犠牲になる場面などは、
平和になれすぎた
日本の子どもにとってはいささか
刺激が強すぎるかもしれません。
しかし世界にはまだまだ
このような国や地域があるのだという
ことを知ることは大切です。
凄惨な現実から
目を背けずに描かれた記述は、
戦争が子どもに与える影響を
正しく伝えているのです。
こうした問題こそ、
映像ではなく読書によって
取り扱うべきであると考えます。

また、シエラレオネでは
学ぶことが制限されていたこと、
特に女子は学ぶことが
許されないばかりか、
基本的人権すら与えられていないことを
克明に伝えています。
学びたくても学べない苦しさ。
自ら学びを放棄しがちな
日本の中学生にとって、
この事実を知ることもまた
重要だと感じます。
「学ぶこと」は多くの人々が
命懸けで勝ち得た
人間としての大切な「権利」であることを
本書は子どもたちに
気づかせてくれるはずです。

二つめは、
人種差別と偏見への問題提起です。
本書には日常生活における人種差別も
もちろん描かれているのですが、
それ以上にバレエ界での偏見や差別が
根深いことを伝えています。
「黒人ダンサーの身体は
バレエに向かない」
「黒人の白鳥は美しくない」といった、
クラシック・バレエ界に根強く残る
制度的文化的な人種差別に、
くじけることなく真っ向から
立ち向かった姿勢は
子どもたちに勇気を与えるはずです。

本書を読むかぎり、
バレエ界にはもう一つ
「美しくあるために
過度な減量をする」という
「悪習」ともいえるものが
存在していたようです。
それに対し、幼少期に真実の「飢餓」を
経験した著者が、
「生きるために必要な食を、
自ら断つようなことは絶対にしない」と
拒絶するエピソードもまた素敵です。
旧弊に無思慮で従うのではなく、
自分の心で考えて判断する。
それもまた子どもたちに対しての
何らかのメッセージとなるはずです。

もう一つ、養父母である
デプリンス夫妻の「無償の愛」も、
本書の大きな特徴であり、
味わいどころです。
ミケーラ本人の努力は
もちろん素晴らしいのですが、
それを受け止め、物心両面で支え続けた
アメリカの養父母の愛の大きさこそ、
子どもも大人も
見逃してはならないところです。
血はつながっていない、
肌の色も異なる、しかし家族として
しっかり絆がつながっている。
日本国内の児童福祉や養子縁組の
現状と比較し、海外における
「戦争孤児や困難な状況にある子どもの
国際養子縁組」には
驚かされるばかりです。
実の子さえも虐待されるケースが
後を絶たない日本にとって、
この「無償の愛」から学ぶべきことは
多いはずです。

スポーツや芸能分野における
少年少女の成長物語は、
日本のヤングアダルト向け作品を探せば
いくらでも見つかりそうです。
しかし本書ほど
過酷な状況下に置かれた主人公、
事実が持つリアリティの重さ、
社会的な問題提起を内包した作品は
ほとんどないはずです。
ぜひ中学生に
読んでほしいと思うのですが、
日本では海外ほど
評判にはならなかったようです。
せめて中学校の図書館に
置いてほしいと願うばかりです。
大人のあなたもぜひご賞味ください。

(2026.6.10)

〔ミケーラさんの映像〕
本書のPR動画としてポプラ社から
ミケーラさんおよび
養母のエレーンさんの
インタビューが公開されています。

Taking Flight by Michaela DePrince

そしてミケーラさんが出演した
2021年公開の映画「コッペリア」の
予告動画も必見です。

〔その後のミケーラさん〕
本書出版から十年の間に、
彼女は世界のトップバレリーナとして
輝かしいキャリアを築き、同時に
多くの人々を支える活動を
続けていました。
しかし、大変悲しいことに、
ミケーラさんは2024年9月10日、
29歳という若さで急逝されました
(死因は公表されていません)。
彼女の訃報は、世界のバレエ界や
彼女を応援していた人々に
大きな衝撃と深い悲しみを与えました。

さらに切ないことに、
ミケーラさんが亡くなった翌日の
9月11日、彼女を深い愛情で育て、
共に本書を執筆した
養母のエレーヌ・デプリンスさんも、
病気(手術の準備中)のため
息を引き取られました。
家族の声明によると、
エレーヌさんはミケーラさんが
亡くなったことを知らぬまま、
そしてミケーラさんも
お母様の体調急変を知らぬままの、
旅立ちだったそうです。

〔関連記事:児童文学作品〕

「希望の図書館」
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「ドアのむこうの国へのパスポート」

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EB JによるPixabayからの画像

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