
大正昭和期の探偵小説の多様性を味わう
「新青年傑作選集1
犯人よ、お前の名は?」角川文庫
古い雑誌でいまでも
懐かしがられる点では、
「新青年」にしくものはない。
発行部数でいえば、最盛期でも
数万部にすぎなかったのに、
この雑誌は戦前の若い人々に
消え難い印象を刻みつけた。
隅々まで編集者の感覚が
行き届いていた…。
(「解説」より)
大正から昭和にかけて
日本のミステリ(探偵小説)の
発展を支えた雑誌「新青年」。
その黄金期を象徴する作品群を
収録したのがこのアンソロジー
「新青年傑作選集1」です。
非常に濃密で、
日本の探偵小説の揺籃期を
肌で感じられる素晴らしい作品群です。
日本のミステリ史において
「戦前・昭和初期の
探偵小説が持つ多様性と、
モダンな空気感を一冊で俯瞰できる
記念碑的な教科書」と
なっているのです。
〔「新青年傑作選集1」角川文庫〕
永遠の女囚 木々高太郎
家常茶飯 佐藤春夫
変化する陳述 石浜金作
月世界の女 高木彬光
彼が殺したか 浜尾四郎
印度林檎 角田喜久雄
蔵の中 横溝正史
烙印 大下宇陀児
「永遠の女囚」(木々高太郎)
結婚式の夜に
別れて帰ってきた桂が
別の男と駆け落ちする。
しかしその相手をも捨てて
戻ってきた。
何かと問題を起こす桂に対し、
姉の正子は
「また何か事件を起こすのでは」と
不安になる。
その予感は的中し、
桂は父親・久右衛門を…。

〔「永遠の女囚」味わいどころ〕
①科学的捜査のない時代は、面白い
②探偵は法医学教室博士、でも脇役
③最大の謎解きは、桂の壮絶な女心
本書の味わいどころ①
「探偵小説」の多様な広がり
このアンソロジーの最大の魅力は、
単なる犯人捜しの
ミステリーにとどまらない、
当時の探偵小説が持っていた表現の
幅広さを体感できる点にあります。
論理的な「本格探偵小説」を志向した
浜尾四郎の作品がある一方で、
当時の流行であった「変格探偵小説」
(エロ・グロ・ナンセンスなど)の
影響下にある大下宇陀児の
サスペンスなどが共存しています。
「ミステリかSFか」と迷わせるような
高木彬光の幻想的な物語や、
佐藤春夫のように私小説とミステリ、
ユーモアをシームレスに融合させた
「スタイリッシュな奇譚」など、
ジャンルの境界線を超えた
自由な発想の作品の
集合体となっているのです。
「家常茶飯」(佐藤春夫)
朝田が「僕」を訪ねてきた。
翻訳の仕事に使っていた原本が
紛失して困っているのだという。
本屋の主人に渡したが、帰る際、
あがりかまちへ置いたまま
忘れたのだという。
本は家の中にあるはず。
「僕」は探偵として
茶本を紹介する…。

〔「家常茶飯」味わいどころ〕
①「日常生活」を転化させた「ミステリ」
②「ミステリ」に見せかけた「ユーモア」
③「ユーモア」に擬態させた「幻想小説」
本書の味わいどころ②
「人間の心の深淵」の謎解き
収録作の多くは、
物理的なトリックよりも
「人間の内面や心理の綾」そのものを
最大の謎として扱っています。
木々高太郎の作品では、
殺人事件の真相以上に
「絶絶な女心」を解き明かすことに
主眼が置かれ、純文学的な要素が
強く打ち出されています。
石浜金作の作品に見られる
「分からなさ」や、
横溝正史が描く
「倒錯した耽美な世界」など、
読者の理性ではなく
感情や本能を揺さぶるような
心理的ミステリとしての味わいが
溢れています。
「変化する陳述」(石浜金作)
だってもうそのほかに
手段がなかったのですもの……。
それでわたしくは
あの人をいっしょに……、
…………、…………。
…………、そして、思わず、
その時……、………、………。
見ると、あの人は
その時もうすでに、
息を切って…。

〔「変化する供述」味わいどころ〕
①「分からない」美子の供述の変遷
②「分からない」短銃と事件の背景
③「分からない」幾人かの登場人物
本書の味わいどころ③
「知られざる逸品」との再会
この本は、現代では全集などでしか
読めないような、
あるいは単独の作品集が
存在しないような
マニアックで希少な作家の
傑作に触れられる
貴重な機会を提供しています。
早逝した浜尾四郎や、
自身の短編集がほとんど存在しない
石浜金作、
近年再評価が進んでいる
大下宇陀児など、
ミステリ史の中で
「忘れ去られようとしている作家」の
逸品が収録されているのです。
雑誌「新青年」という、かつて
国内外のミステリを読者に紹介し、
多くの探偵小説家を輩出した
伝説的な舞台の熱気を、
時を超えて味わうことができるのが
このアンソロジーの醍醐味です。
このように本書は
「謎解きの快感」だけでなく、
「文学としての探偵小説」が持つ奥深さや
昭和初期の熱烈な創作エネルギーを
しみじみと味わえる
一冊となっているのです。
「月世界の女」(高木彬光)
「わたくしね、
月の世界で生まれましたのよ。
下界にこうして
住んでおりましたが、
まもなくもとの生まれ故郷に
帰らなければなりませんの…」。
「私」が一目惚れした美しい女性は
こう言って姿を消してしまう。
彼女はいったいどこへ…。

〔「月世界の女」味わいどころ〕
①女が消えた!?
でも犯罪の存在しないミステリ
②もしかして「かぐや姫」!?
姫の結婚の行方は?
③男女交際あるある!?
男の目はいたって節穴!
本アンソロジーを編纂したのは、
日本屈指のミステリ評論家・
研究者である中島河太郎氏です。
彼の目利きによって編まれた本書は、
単なる「面白い話集」ではなく、
雑誌「新青年」が日本のミステリを
どう育てたかを示すテキストとして
大きな価値を持っています。
「誰が殺したか」(浜尾四郎)
もし私が探偵小説作家だったら、
これからお話ししようとする
事件を一編の興味深い探偵小説に
仕組んで発表するでしょう。
しかし単に
一法律家にすぎぬ私が、
憖じ変な小説を書けば
世の嗤いを
招くにすぎないでしょうから、
私は今…。

〔「誰が殺したか」味わいどころ〕
①威風堂々!本格探偵小説
②新鮮奇抜!手記ミステリ
③奇想天外!反転する真相
「印度林檎」(角田喜久雄)
女は、四度目に会ったその日、
ようやく名前を明かし、
良輔を自宅に招き入れた。
しかし電気が消えたその一瞬、
突如現れた覆面の男が
良輔を襲撃、
彼は椅子に縛り上げられる。
覆面の男は
隣室で着替えていた女を射殺し、
姿を消す…。

〔「印度林檎」味わいどころ〕
①事件を解決しない探偵役「明石良輔」
②すべての容疑者は釈放、犯人は誰?
③単純な事件、ひねりの効いた「真相」
戦前の「新青年」といえば
江戸川乱歩や横溝正史が有名ですが、
この「第1巻」にあえて乱歩を入れず、
周囲を固めた作家たちの
多彩なアプローチ
(本格・変格・心理主義・法廷ものなど)を
並べたことで、当時の探偵小説が
いかに自由で実験的だったかが
証明されています。
巻末の解説も含め、
文学史的な資料価値の非常に高い
一冊となっているのです。
「蔵の中」(横溝正史)
雑誌編集長・磯貝のもとに
持ち込まれた素人原稿。
「蔵の中」と題されたそれには、
ある姉弟の妖しげな生活に続き、
覗き見られていた彼の日常が
記されていた。
著者の青年・蕗谷笛二は、
肺を病み、
女性のように美しい姿を
しているという…。

〔「蔵の中」味わいどころ〕
①描かれる倒錯した世界
②サスペンス溢れる展開
③「入れ子構造」の特殊性
「烙印」(大下宇陀児)
私欲のための証書偽造が
主人・亘理子爵に発覚し、
窮地に立たされた
青年事業家・由比祐吉。
彼は破滅を逃れるため、
策を弄する決意を固める。
ある夜、
家路を急いでいる子爵に、
急にぶつかってきた女性。
その女性は素裸の上に外套を…。

〔「烙印」味わいどころ〕
①現在進行形で描かれる殺人計画
②計画を妨害する「敵」の正体は?
③追い詰められる視点からの描写
かつては「トリックが古い」
「動機が古風」などと
いわれることもありましたが、
現代では逆に、
古き良き大正・昭和初期の
ミステリを味わうための
最高のタイムカプセルとして、
再評価されていいはずです。
古書をあたるしかないのが残念ですが、
機会があればぜひご賞味ください。
(2026.6.12)
〔角川文庫「新青年傑作選集」〕

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