
「自然の美しさ」と「静謐な世界観」
「みかげ石 他二篇」
(シュティフター/手塚富雄・藤村宏訳)
岩波文庫
石さながらに、その印象もまた
それぞれに異なっている。
しかし、全体を通じて
一貫しているものは、
「すべての人間は、
他の人間にとって
一個の宝石であるゆえに、
万人が宝石として
まもられんことを欲する」
作者のあたたかい人間愛…。
(「解説」より)
時代や世代を超えて、
長く読み継がれるべき
文学作品を挙げよ、といわれたとき、
真っ先に指を折るべきはこの
シュティフターの作品群ではないかと
思います。
派手な事件が起きるわけではないのに、
自然の描写や人間の営みが静かに、
そして深く心に染み入ってくる
独特の空気感は、何物にも代えがたい
素晴らしい味わいがあるのです。
本書の味わいどころ①
「自然の美しさ」と「静謐な世界観」
シュティフターの作品は、
画家を志していた作者らしい、
細部まで描き尽くされた
圧倒的な自然描写が最大の特徴であり、
味わいどころなのです。
「みかげ石」では
オーストリアの山あいや
森林の豊かさが、
「石灰石」では石灰岩台地の村の風景が、
脳内に鮮明な像を結ぶほど
見事な筆致で綴られています。
これらの描写は単なる背景ではなく、
作者の掲げる「優しい法則」
(暴風雨のような激しさよりも、
静かに降り注ぐ雨やそよ風といった
日常の営みにこそ偉大さが宿るという
思想)を体現しており、
作品全体に穏やかで心が洗われるような
静謐な空気感を与えています。

「みかげ石」
ある春のことだった。
ひどい病気が突然、
わしらのところにも
やって来たのだ。
そしてこのあたり一帯に
すっかり広がった。
道の上にまだ残っている
散った白い花の上を、
死人が運ばれていった。
この疫病は
ペストという名前だった…。
〔「みかげ石」味わいどころ〕
①全篇を貫く美しい「自然描写」
②静かに語られる「回復の物語」
③多重構造による「語りの継承」
本書の味わいどころ②
「高潔さ」がもたらす人間愛の深み
登場人物たちが世俗的な欲を離れ、
静かに、かつ豊かに生きる姿も
共通する味わいどころです。
「石乳」の城主や支配人のように
欲を持たない豊かな生き方や、
「石灰石」の牧師のように
極貧生活を送りながらも
ある「夢」のために人生を捧げる
高潔な精神が描かれているのです。
シュティフターの作品はしばしば
「きれいごと」と受け取られることも
ありますが、そこには
人間愛が溢れるほど表現されており、
戦時であっても優しさを失わない
人間の心に触れることができます。
本書の味わいどころ③
緻密な「構成の妙」と「幸福の伝承」
大きな事件や
派手な展開はありませんが、
読み進めるほどに無駄のない
緻密な構造に気づかされます。
「石灰石」では
日常の何気ない交流のすべてが
最後の遺言書へとつながる
「伏線」として機能しており、
「みかげ石」では
昔語りと現実が幻想的に重なり合う
構成の妙が味わえます。
また、過去の悲劇や困難を
乗り越えた先にある「幸福」が、
次の世代や他者へと
確かに受け継がれていく様子が
描かれているのです。
残酷な記憶すらも、誰かを勇気づけ、
救済するための「物語」へと
昇華させる手法は、
シュティフター文学の
真骨頂といえます。

「石灰石」
石灰岩台地の広がる
シュタインカールの地を、
測量のために訪れた「わたし」は、
貧しい姿の牧師と再会する。
ある日、突然の雷雲に見舞われた
「わたし」は、牧師館に
泊めてもらうことになる。
その夜、牧師は
木の長椅子で眠っていた…。
〔「石灰石」味わいどころ〕
①描かれるのは「伏線」と自然の美しさ
②遺言書が明かす牧師の極貧生活の訳
③本作品が問いかける「才能とは何か」
シュティフターが生きた19世紀半ば、
ドイツ文学界は
(というよりも欧州社会全体が)
政治的な激動期にありました。
そのため、社会の変革を熱く訴える
文学がもてはやされる中、
自然の美しさや人々のささやかな日常を
淡々と描くシュティフターの作風は、
一部の批評家から
「現実逃避だ」「退屈で古臭い」と
激しく批判された経緯があります。
しかし、シュティフター自身は
これに対して明確な信念
「優しい法則」を掲げて反論しています。
「私たちは、暴風雨や、
稲妻を放つ雲や、
大地を揺るがす火山を
偉大だと呼びがちだが、
本当に偉大なのは、
一日に何度も静かに降り注ぐ雨や、
絶え間なく吹くそよ風、そして
何世代にもわたって人間を支え続ける、
日常の倫理的な結びつきである」。

「石乳」
わたくしたちの祖国に、
一つの城がある。
この城は、
方々でよく見かけるように、
広い濠をめぐらしていて、
池の中にある島の上に
立っているように見える。
このような
濠でとりかこまれているのは、
普通平地にある城で、
水で敵を…。
〔「石乳」味わいどころ〕
①欲を持たない豊かな生き方に触れる
②優しさを失わない人間の心に触れる
③誰かへと受け継がれる幸福に触れる
彼の死後、20世紀に入ると、
カフカやマン、ニーチェといった、
作家や思想家たちがこぞって
シュティフターの文体の
「恐るべき完成度」に気づき始めます。
日本でも、
岩波文庫をはじめ古くから翻訳され、
目の肥えた文学愛好家や作家たちに
静かに愛され続けてきました。
シュティフターの描く
「自然への畏敬の念」や
「移り変わる季節への繊細な感性」は、
東洋的な無常観や自然観と
深く響き合う部分があります。
派手なドラマではなく、
「物静かな表現の中に
しみじみとした味わい」を感じ取る
日本の読み手の審美眼において、
シュティフターは文句なしに
「地味ながらも一生モノの輝きを放つ
古典」として定着してきたのです。
近年の近代文学研究においては、
トラウマや大きな災害の記憶を、
後世にどうやって伝えていくかという
「記憶の文化」の視点からも、
シュティフター文学の
再評価が進んでいます。
ただ悲劇を記録するのではなく、
「人間が再び立ち上がるための
物語」として仕立て直して
次の世代にバトンを渡すこと。
「みかげ石」の「おじいさん」の語りは、
まさに現代でいう
心のケアであるとともに、
歴史のポジティブな継承
そのものであり、その先見性が
今なお新しく論じられています。
シュティフターの作品は、
はじめて読んだときよりも、人生の
ふとした瞬間に思い返したときや、
二度三度と読み返したときにこそ、
さらに深いところで読み手に
語りかけてくるものがあるのです。
残念なことに岩波文庫版は
現在絶版中ですが、
ネット通販で古書をあたれば
まだまだ入手可能です。
探し出して、ぜひご賞味ください。
(2026.6.15)
〔シュティフターの作品について〕
現在流通しているのは以下のものです。
絶版扱いですが、古書をあたれば
以下のものも入手可能です。
「みかげ石 他二篇」(岩波文庫)
「森の小道・二人の姉妹」(岩波文庫)
「晩夏(上)」(ちくま文庫)
「晩夏(下)」(ちくま文庫)
「作品集第3巻 森ゆく人」(松籟社)
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