
ラストシーンの「脱げない制服」
「制服」(安部公房)
(「幽霊はここにいる・どれい狩り」)
新潮文庫
ちぇっ、まっぴらだぜ、
せっかくうめえ具合に
生きてたのによ。
面白くもねえ、
おとついまでは
立派な人間だったんだ。
誰がどこから見たって、
まちがいのねえ、
おれだったんだ。
おれがここにいりゃあ、
おれがここにいるってことが…
安部公房の処女戯曲であり、
不条理演劇の傑作でもある「制服」。
敗戦直前の朝鮮半島を舞台に、
「国家の権力や役割」
(おそらくその象徴としての「制服」)に
縛られた人間の心理や不条理を
鋭く描いた、
非常に緊迫感のある作品です。
〔主要登場人物〕
制服の男(チンサア)
…一年前に定年退職した元警察官。
死亡し、幽霊となる。
女房
…「制服の男」の妻。
青年
…朝鮮人。「制服の男」の殺人犯として
逮捕、拷問の末に死亡、幽霊となる。
ひげ
…「制服の男」の悪党仲間。
「制服の男」に酒を飲ませ、
隙をうかがう。
ちんば
…ひげの仲間。重病を患い、寝ていた。
学生
…「制服の男」の殺人現場の目撃者。
刑事
…「制服の男」の殺害を取り調べた刑事。
本作品には、
男が突然段ボール箱に入って暮らす
「箱男」や、
見知らぬ家族に部屋を占拠される
「友達」など、
後年の安部作品に見られるような、
日常がガラリと反転するような
SF的・シュールレアリスム的な
「ひねり」はほとんど見られません。
むしろ、
戦時中の満州の泥臭い村を舞台にした、
極めてリアルでストレートな
社会派劇に近い骨組みを持っています。
しかしながら最終場面には
安部らしさが現れています。
その最終場面に絞って、
味わいどころを
考えてみたいと思います。
本作品の味わいどころ①
本人の意に反して脱げない「制服」
最終場面において、
「制服の男」は「女房」の
「なにさ、まだそんな服着て…
はずかしくないの!」の一言に
促されるように、
制服を脱ごうとするのですが、
なぜか「ボタン一つはずれない」のです。
「制服の男」の意に反して
制服は本人と一体化しているのです。
最終場面にいたるまでの間に、
「女房」の証言や「ちんば」の告白から、
彼はその「制服」の威を借りて、
退職(事件の一年前)まで
思うままに振る舞っていたことが
明らかにされます。
朝鮮半島における日本の「国家権力の
手先」として、彼は十分に
その機能を果たしていたのです。
安部文学において、制服や衣服、
あるいは家といった「モノ」は、
単なる道具ではなく
「人間の主客を逆転させ、
人間を支配するシステム」の
メタファーとして配置されることが
多いのです。
制服が肉体と一体化して
脱げないという現象は、
「一度国家の権力や役割の
内側に入り込み、その歯車として
機能してしまった人間は、
たとえ個人の意志で
それを拒絶しようとしても、
二度とただの生身の人間には戻れない」
という絶対的な不条理を
意味していると考えられるのです。
死んでなお、彼は「巡査」という
国家の記号であり続けることを
強制されるのです。
本人の知らぬ間に殺害された
「被害者」として
冒頭から登場した「制服の男」は、
その終幕において見事に
「加害者」へと転じているのです。
本作品の味わいどころ②
「ちんば」も脱がせられない「制服」
「ちんば」が「制服の男」から
制服を脱がせようとするのですが、
彼もまた脱がせることは
できなかったのです。
「ちんば」は明らかに「被害者」であり、
戦争被害の象徴と
とらえることができます。
その「被害者」にも脱がせられないことは
何を意味しているのか?
これは「被害者の怒りだけでは
加害の構造は解体できない」という
ことだと考えらます。
「加害のメカニズム」は、
被害者がいくら反抗しても、
追及しても、攻撃しても、
それだけでは崩せないという、
非常に厳しい「現実の状況」を
示しているのでしょう。
安部は、戦後日本の
「加害の忘却」を批判しつつも、
「加害の構造は単純な善悪では
解体できない」という現実を
描いているのです。
本作品の味わいどころ③
「青年」の放った「ぬげるもんか!」
また、その場面において
「青年」は「ぬげるもんか!」と
断言しています。
彼はこの物語の中で
「国家や権力のまやかし」を
最も冷めた目で見つめている人物です。
「制服の男」がいくら「自分は被害者だ」
「こんな仕事は嫌だった」と
訴えたところで、
彼がその制服を着て行ってきた行為
(つまり植民地での抑圧や権力の行使)の
罪は消えるものではなく、
周囲の人間(その被害者たち)にとっては
彼自身が「国家権力そのもの」であった
という冷酷な現実を示しているのです。
「内面の良心」(があったかどうかは
疑わしいのですが)がどうあれ、
外側のシステム(制服)と人間は
すでに不可分であることを
見抜いているからこその、
「ぬげるもんか!」なのです。
本作品が書かれた1950年代前半、
日本社会には「戦争中は仕方がなかった」
「これからは民主主義の時代だ」という、
いわゆる「一億総懺悔」や、
都合のいい記憶の書き換えが
蔓延していました。
「制服を着せられていただけだ」という
「制服の男」の弁明は、
こうした戦後日本の状況の
メタファーとなっていると
考えられます。
安部は「青年」というキャラクターに
こう言わせることで、
当時の日本社会を
強烈に批判したのです。
さて、本戯曲「制服」の
これまでの主要な上演記録について
調べてみました。
劇作としては非常に有名であるものの、
商業演劇や
主要な劇団によるプロの舞台としては、
実はそれほど頻繁に
上演されてきたわけではないようです。
安部の他の有名戯曲
(「幽霊はここにいる」や「友達」など)に
比べると、
上演頻度は比較的稀な部類に入ります。
それは恐らく
「安部らしいひねりが少ない」という
本作品の性格ゆえの結果でしょう。
しかしながら近年では、
むしろその「ひねりの少なさ」が
重要視されてきています。
「加害者であり被害者でもあるという
二重性を背負った登場人物たち」、
「戦争記憶および植民地支配の
語り直しの装置として機能する
死者の語り」、などの点から、
「戦後日本の忘却された声を舞台化した
重要作」という
再評価が進んでいるのです。
なお、安部は後年のインタビューで、
「制服」は小説として書き始めたら
自然に戯曲になったと語っています。
つまり、小説的発想から偶然
戯曲にたどりついた作品と
とらえているのです。
それゆえに安部は自身の戯曲処女作
(戯曲として意図的に書いた
最初の作品)を「どれい狩り」の方だと
述べているのです。
こうした経緯が「ひねりの少なさ」という
作品の個性を生み出し、それが作者も、
そして発表当時の読み手や研究者も
予想しなかった効果を
生み出したと考えられるのです。
初見では少し地味でストレートな印象を
受けるかもしれない本作品ですが、
ラストシーンの「脱げない制服」という
状況を理解した上で
最初から読み返してみると、
登場人物たちの何気ないセリフの端々に
張り詰めた伏線が巡らされていることに
気づかされます。
処女戯曲ならではの、
若き作者の荒削りながらも
強烈なエネルギーと、
戦後社会への怒りや冷徹な視線が
凝縮された、まさに安部戯曲の
「原点」と呼ぶにふさわしい名作です。
それを裏付けるように2025年、
「制服」が鹿児島で上演されています。
本作品の価値はますます
高まっていくものと考えられます。
文庫版は昭和の時代にすでに絶版、
現在は全集でしか
読むことができないのですが、
図書館等で、ぜひご賞味ください。
(2026.6.24)
〔「幽霊はここにいる・どれい狩り」〕
制服
どれい狩り
幽霊はここにいる
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