「素顔の時間」(眉村卓)

私たちのすぐ隣にそっと寄り添うSF

「素顔の時間」(眉村卓)角川文庫

「点滅」
佐久間が取材した学者は、
刈谷という変人だった。
自宅の一室でありながら
サングラスにマスク、
手袋着用といういでたちで
現れた刈谷は、
人間の欲望はある種の伝染性の
病気であるという自説を
滔々と語る。
その記事が話題を呼び…。

〔「点滅」主要登場人物〕
佐久間保雄

…雑誌出版社副編集長。まもなく50歳。
刈谷英一郎
…佐久間の取材に応じた大学教授。
 欲望は伝染性の病気であると主張。

以前取り上げた「強いられた変身」に続く
眉村卓のSF作品集です。
「強いられた変身」同様、
雑誌「野性時代」に掲載されたものであり
昭和55年から昭和58年にかけての
作品群です。
「なぞの転校生」
「ねらわれた学園」といった、
ジュヴナイルにおける作風とは
まったく異なる、
穏やかな作品世界です。

かつてのSFジュヴナイルが持っていた、
あのゾクゾクするようなサスペンスや
SF的緊張感からすると、
本書収録の作品群の持つ
穏やかでどこか切ない空気感には、
新鮮な驚きがあります。
日常の裏側に潜む非日常の描き方が、
とても優しく、じんわりと心に染みる
描かれ方となっているのです。

「逢魔が時」
フリーライター・島崎は、
自分の才能の衰えに悩んでいた。
あるパーティで知り合った
女性版画家・なつえも、
自身の創造力の枯渇に
苦しんでいた。
二人は同じような「円盤」を
護符のようにして持っていた。
自分たちの才能はどうやら…。

〔「逢魔が時」主要登場人物〕
島崎康正

…若くして認められたフリーライター。
 以前のように書けなくなっている
 ことに気づく。
 模様の三つついた「円盤」を持つ。
谷川なつえ
…才能豊かな女性版画家。
 近年、想像力の枯渇に苦しむ。
 模様の五つついた「円盤」を持つ。
松田伸
…画家。島崎となつえを
 パーティに招く。

眉村卓は、書く対象によって、
明確に筆致や作品世界を
コントロールする作家でした。
「なぞの転校生」や「ねらわれた学園」など
SFジュヴナイルの傑作たちは、
60年代後半から70年代にかけて
「SF普及」の使命感も持って
書かれたこともあり、
多感な思春期の少年少女が主人公です。
彼らの葛藤、学校という閉鎖空間に
侵入してくる異分子、
そして世界の危機といった
「動的でドラマチックな緊張感」が
前面に出されていました。

「秋の陽炎」
フリーの広告ライター安田は、
体調の不思議な異変を感じる。
周囲の人間の背後に、
陽炎のようなゆらめきが
見えるようになったのだ。
その陽炎は色や濃さ、大きさが
さまざまであり、
昼間の屋外でしか
見られなかった。
これは疲れか…。

〔「秋の陽炎」主要登場人物〕
安田征行

…フリーの広告ライター。
 周囲の人間の背後に陽炎のような
 ゆらめきが見えるようになる。

一方、本作は
一般文芸誌「野性時代」掲載作品です。
当然、読者層の変化に伴って
テーマも変わらざるを得ません。
主人公たちの多くは、
日常のルーティンに少し疲れたり、
人生の機微を知る年齢の
大人たちとなります。
そこに訪れる不思議な出来事は、
世界を揺るがす大事件ではなく、
個人の内面や人間関係を
そっと照らす「静的なスパイス」として
機能するのです。
いわば、眉村流の
「エブリデイ・マジック」
(日常の奇跡)であり、
大人がふと立ち止まって
人生を振り返るような、穏やかな
味わいになるのは必然なのです。

「枯れ葉」
多額の借金を抱えた会社員・
大槻は、逃亡を決意する。
当てもなく電車に乗り込んだ彼が
出がけに届いていた郵便物を
確認すると、不思議な文面が
目に飛び込んできた。
「あなたが追われていることを
私たちは知りました。
私たちの町へ…。

〔「枯れ葉」主要登場人物〕
大槻定男

…借金を抱え逃亡した男。
 空想癖が強く社会になじめない。

そして「1980年代という時代」も、
その穏やかさを後押しする重要な
ファクターとなっているはずです。
60〜70年代の眉村作品には、
高度経済成長期の歪みや、
組織と個人の対立が
色濃く反映されていました。
いや、60~70年代においては
日本SF界自体が、眉村をはじめとし、
小松左京筒井康隆星新一などが
牽引して、
「近代化する日本・地球・宇宙」という
マクロな視点(大きな物語)を
扱っていたのです。

「素顔の時間」
玲子は死んだ。
「とうとう死んだか」
玲子のお父さんが呟いた。
「明日の延伸時間になったら、
さぞ、ぶつぶついうんだろうな」
玲子のお母さんは泣いていた。
が、じきに泣くのをやめた。
朝になった。
基本時間の今日が
そうであったように…。

〔「素顔の時間」主要登場人物〕
吉川剛司

…会社員。会社の独身寮に入っている。
玲子
…剛司の婚約者。

ところが80年代に入ると、
日本社会全体が
豊かさと安定を享受するようになり、
人々の関心は「社会の変革」よりも
「自己の内面」や
「記号化された心地よさ」へと移ります。
SFというジャンル自体も、
過激な思考実験から
日常に寄り添うものへと
変質していきました。

「減速期」
電車の中でかつての交際相手・
杏子そっくりの
女子高生を見かける。
高校時代の彼は
大学受験に専念するため、
一方的に彼女と
縁を切ったのだった。
その後も彼は、かつて
自分が振り捨ててきた人間と
そっくりの顔の人たちと
出会う…。

〔「減速期」主要登場人物〕
楠田余一

…中年で独身のサラリーマン。
 かつて自分が振り捨てた者と
 そっくりの人間に、次々に出会う。
大島杏子
…楠田の高校時代の交際相手。
北野千佳
…楠田の新入社員時代の交際相手。

眉村自身も作家として円熟期を迎え、
ギラギラした社会的告発や
ハードなSF設定よりも、
「普通の人々のささやかな日常の尊さ」に
温かい視線を注ぐようになります。
この時代の空気感と
作家の精神的成熟が、
大人向けのコンセプトと
幸福に融合した結果、
本作の「穏やかな作品世界」が
生まれたのだと考えられます。

「少し高い椅子」
酔って帰宅した秋山は驚く。
見知らぬ女が赤ん坊を抱えて
彼を出迎えたのだ。
彼は半年前に妻と離婚して
一人暮らしだった。
その女は以前から
彼との結婚生活を
続けていたかのように
自然な振る舞いを見せた。
翌日、彼が出社すると…。

〔「少し高い椅子」主要登場人物〕
秋山誠一郎

…会社員。ある日突然自分の
 身のまわりが変化した世界に
 投げ込まれる。
森ひびき
…秋山が半年前に別れた妻。
明子…新しい世界での秋山の妻。
洋子…新しい世界での秋山の娘。
須田…秋山と同期入社の社員。

こうした時代背景を踏まえ、
改めて本書「素顔の時間」を振り返ると、
眉村卓という作家の凄みが
浮き彫りとなります。
眉村は、70年代的な「組織と個人」という
重いテーマを背負って戦った
前線の一員でありながら、
80年代の「日常回帰」「内省化」という
時代の空気を
いち早く察知していたのだと思います。
そして、
激しい論争に巻き込まれることなく、
自らの筆致を
「大人のための穏やかな生活SF」へと、
見事に
ソフト・ランディングさせたのです。

80年代という時代は、
SFが牙をむくのをやめ、
私たちのすぐ隣に
そっと寄り添うようになった時代。
その変化の最も幸福な果実の一つが、
この「素顔の時間」であると
いえるでしょう。
大人の皆さん、ぜひご賞味ください。

(2026.6.26)

〔関連記事:眉村卓の作品〕
「なぞの転校生」(1967)
「侵された都市」(1967)
「まぼろしのペンフレンド」(1970)
「テスト」(1970)
「時間戦士」(1970)
「さすらいの終幕」(1970)
「ねらわれた学園」(1973)
「0からきた敵」(1973)
「ねじれた町」(1974)
「地獄の才能」(1975)
「閉ざされた時間割」(1977)
「少女」(1977)
「白い不等式」(1978)
「原っぱのリーダー」(1992)

「強いられた変身」
「ショート・ショート 一分間だけ」
「傾いた地平線」

〔角川文庫・眉村卓作品〕

Iris,Helen,silvyによるPixabayからの画像

【今日のさらにお薦め3作品】

「こちらニッポン…(上)(下)」
「赤耀館事件の真相」
「錯覚屋繁盛記」

【こんな本はいかがですか】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA