「心臓」(小川国夫)

描かれるのは、未熟ゆえに烈しい青年期の心理

「心臓」(小川国夫)
(「流域」)河出書房新社
(「百年文庫072 蕾」)ポプラ社

…ゴクンゴクンと
波動を胸壁にぶつけていた。
一糸乱れないのが
彼には不思議だった。
どんな動物も体に心臓を持ち、
混乱する意志と行為をよそに、
揃って整然と
この音をさせている。
そう感じながら、
彼は長い間耳を澄ましていた。

いつもは冒頭に粗筋を載せるのですが、
筋書きらしい筋書がないため、
表題「心臓」の意味が
もっともよく現れている
末尾の一節を抜粋しました。
さらに登場人物についても、
「房雄」「則子」「綾子」の三人だけが
描かれているのですが、
年齢をはじめとする社会的属性は
一切記されず、
三人の関係性も不明です。
三人の感情もほとんど記されず、
房雄は則子と綾子を
どう思っているのか、
よく見えてきません。
一読しただけでは、
何を描こうとしているのか、
まるでつかめない作品なのです。
作者がこの三人を
どのように位置づけようとしたのか
考えることこそが、
本作品の味わいどころであるとともに、
作品理解への入り口であると考えます。
小川国夫の短篇、「心臓」です。

今日のオススメ!

本作品の味わいどころ①
「触れられない光」としての則子

会いに来た則子に対して
つっけんどんな対応をする房雄ですが、
その直後には用もないのに
彼女を追いかけ、
再び言葉を交わしているのです。
明らかに房雄は則子に
好意を持っているのです。
それでいて房雄と則子の関係は
それ以上には進展しません。

この部分だけを読むと、
房雄は奥手な性格の「草食系男子」と
片付けられてしまうのですが、
後半部では決してそうではないことが
明らかになります。
かなりの「肉食系」なのです。
則子よりも綾子の方が好きだった、
という単純な問題でもなさそうです。
房雄はむしろ則子の方にこそ
心を動かされているのです。

則子は房雄にとって、
単なる恋愛対象を超えた、
不可侵で純粋な存在として
捉えられているのでしょう。
彼女に気がありながらも
避けるような対応をするのは、
彼女を強く意識するあまり、
自分の生々しい欲望や未熟さで
その純粋さを汚したくない、
あるいは拒絶されるのが怖いという、
思春期・青年期特有の
「内面の揺らぎ」の表れと考えられます。

本作品の味わいどころ②
「触れられる身体」としての綾子

後半部分は房雄と綾子の場面となり、
二人が肉体的な交渉を持つことが
描かれています。
どちらかというと綾子が誘いかけた
要素が強く、房雄はそれに
応じただけのように見えますが、
それだけではないでしょう。

後半に登場する綾子は、
則子とは対照的に、房雄にとって
「肉体的な生のエネルギー」を
そのままぶつけられる存在なのです。
則子の前では理性が働いて
身をすくませてしまうのに対し、
綾子の前では
肉体が先走っているのです。

本作品の味わいどころ③
揺れうごく「生命」としての房雄

こうしてみていくと、
則子は房雄にとっての憧れであり、
「触れられない光」として描かれ、
綾子は「触れられる肉体」としての
存在と考えられるのです。
明らかに意図された「対照」なのです。
そう考えると、則子も綾子も、
房雄の内面と肉体を
浮かび上がらせるための「背景」の一つと
とらえるべきなのでしょう。

その「背景」を通して描かれるのは、
房雄の「未熟ゆえに
烈しい青年期の心理」なのでしょう。
人間には、
「則子的」な「精神的に憧れる
純粋な世界」と、
「綾子的」な「肉体が求めてしまう
生々しい本能の世界」の
双方が存在するはずです。
小川はそのどちらか一方を
正しいとするのではなく、
二人の女性との間で
「心臓をドキドキさせて揺れ動く」房雄の
姿をそのまま記すことで、
割り切れない青春期のエネルギーの
総体を描こうとしたものと
考えられます。

その心理は言葉では語られません。
房雄の「心臓の鼓動」
「光と影のコントラスト」
「周囲の自然の描写」といった、
五感に響くディテールだけで
登場人物の立ち位置や関係性を
表現しようとしているのです。
後半で突如として
肉体的な交渉が描かれるのも、
言葉による恋愛論ではなく、
「肉体の衝突と
その圧倒的な生の実感」こそが
人物たちを饒舌に語ると
考えたからなのでしょう。

本作品では登場人物たちの年齢、
学校もしくは職業、家庭環境といった
「社会的属性」が
徹底的に削ぎ落とされています。
一般的な小説であれば書かれるはずの
「手がかり」は、
意図的に隠されているのです。
それによって本作品の三人は、
「時代や場所を超えた、
普遍的な若い男女のプロトタイプ」へと
昇華しています。
それゆえに発表から半世紀以上すぎた
現代においても、
読み手に強烈な印象を与える作品として
その鮮度を保ち続けているのです。

筋書きらしい筋書きはなく、
登場人物三人も具体性に欠ける
造形であるにもかかわらず、
読めばなぜか強く共感してしまう
不思議な作品です。
読み手の記憶や過去の体験に
直接働きかけてくる感覚があります。
地方のリアル書店では
まったく見かけることのなくなった
作家ですが、
古書は意外なほどに流通しています。
ぜひ古書店か図書館で
出会ってください。

(2026.7.1)

〔「流域」河出書房新社〕
心臓
酷愛
先生の下宿
消えた青年
夜の水泳
闇の力
蛇王

〔「百年文庫072 蕾」ポプラ社〕
心臓 小川国夫
蟹 龍胆寺雄
乙女の告白 プルースト

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