「夢の底から来た男」(半村良)

すべてが崩れ去る驚愕の結末

「夢の底から来た男」(半村良)
(「夢の底から来た男」)角川文庫

物静かでささやかな平和を求める
サラリーマン・一郎の
夢の中に現れる
「血まみれの手をした男」は、
やがて現実世界でも
その姿を現し始める。
大きな商談が彼のもとに
舞い込んできたのだが、
その悪夢のせいで彼は
次第に苛立っていく…。

「戦国自衛隊」などのスペクタクルSFで
知られる半村良の短篇作品です。
1975年に発表された作品ですが、
その衝撃は50年経った今でも
まったく色褪せていません。

〔主要登場人物〕
加藤一郎

…穏やかな性格の会社員。
 「血まみれの手をした男」の
 悪夢を見る。
加藤香子…一郎の妻。
加藤みどり…一郎の娘。
加藤健…一郎の息子。
…一郎の会社の営業課長。
大野…一郎の会社の経理課長。
立石
…香子の叔父。
 大口の契約を一郎に紹介する。
太田芳江
…一郎の会社の事務員。
鈴木
…立石から一郎の会社を紹介された男。
「男」
…一郎が地下鉄で出会った男。

本作品の味わいどころ①
「血まみれの手」は夢か現実か

主人公・加藤一郎は、
そのありふれた名前同様、
穏やかな性格の
平凡な会社員にすぎません。
会社においても
大きな評価を受けているわけでもなく、
家庭においても
ごくごく平和な毎日を
過ごしているだけなのです。
そんな彼が「血まみれの手をした男」の
悪夢に苛まれます。
なぜそのような夢を見るのか?
彼はそれがわからないまま
悶々とし続けます。
それはやがて現実世界においても
彼の目に映るようになるのです。

半村良の作品ですから、どうしても
SF的展開を期待してしまうのですが、
そうした読み手の思いを裏切るように、
モダン・ホラーの恐怖が
少しずつ進行します。
次第に現実を侵食していく
「血まみれの手をした男」の正体とは
いったい何か?
本作品の序盤において、読み手は
主人公・一郎と同じ目線で
恐怖を体感することになるのです。

本作品の味わいどころ②
「悪夢」がもたらす人格の崩壊

そして中盤からは一郎の人格崩壊が、
読み手のさらなる不安を掻き立てます。
ところが一郎の人格を壊していくのは
「悪夢」以上に
現実の「微妙な違和感」です。
大野の持つ「銀色のライター」、
鈴木の奇妙な対応、
小さな喫茶店の扉の鈴の音、
麻薬中毒だったという
立石の若い頃の経歴、
家族を火災で亡くしたという
鈴木の過去、
芳江の指にはめられていた指輪、
それらすべてが一郎を追い詰め、
彼の人格は壊れ始めていくのです。

その過程は
超一級のサイコ・サスペンス映画を
見ているようです。
「嘘つけ。いつも使っていたじゃないか」
「貴様の化けの皮を剥いでやる」
「うるさい。つきそい看護婦みたいな
ことを言うな」
「てめえ…てめえもか」。
穏やかな性格だった一郎の
ヤクザまがいの口調は
読み手に戸惑いを覚えさせます。
本作品の中盤において、
読み手は主人公・一郎の人格の崩壊に
大きな不安と恐怖を
感じることになるのです。

本作品の味わいどころ③
すべてが崩れ去る驚愕の結末

モダン・ホラー、サイコ・サスペンスと
続いた本作品の筋書きは、
終盤で一気にSFへと反転します。
一郎の生活、いや、
一郎の世界のすべてが崩れ去り、
「血まみれの手をした男」の
正体が判明するとともに、
一郎は破滅をむかえるのです。
詳しくはぜひ読んで確かめてください
としかいいようがありません。

終盤は単なる「大どんでん返し」では
ないのです。
「最後に驚かせる」だけの
ミステリであれば、
一度読んだら終わりです。
しかし結末を知った上で
最初から読み直すと、
一郎の何気ない行動や心理、
周囲の状況のすべてが
伏線として完璧に機能していることに
気づかされるはずです。
本作品の終盤において、
本作品はSFへと反転し、
さらには純文学へと昇華し、
読み手は主人公・一郎の物語の
意外な結末に
驚愕せざるを得ないのです。

半村良という作家は
「戦国自衛隊」に代表されるような
スペクタクルSFの書き手という
イメージが強いのですが、
本作品「夢の底から来た男」は、
それとはまったく異なる
アプローチです。
実はどちらも紛れもない
半村良の真実の姿であり、
両者は根底でつながっているのが、
この作家の非常に面白いところです。

「戦国自衛隊」のような
派手なスペクタクルSFと、
「夢の底から来た男」のような
じわじわと日常が侵食される
サスペンスSF。
一見すると対極にあるように見えますが
半村良という作家の脳内では、
これらは「同じひとつの思想」を
表現するための、アプローチ(見せ方)の
違いにすぎないのでしょう。

「戦国自衛隊」と「夢の底から来た男」には
ある決定的な共通パターンがあります。
それは
「強固で当たり前だと思っている
現実の世界に、
突如として異物が放り込まれ、
世界全体のバランスがガラガラと
崩れていく恐怖と興奮」です。

「戦国自衛隊」の場合は、
マクロなアプローチといえます。
近代兵器を持った自衛隊という
「異物」が戦国時代に放り込まれます。
これによって歴史という
世界のシステムが狂っていく様子を、
派手なアクションや戦争という
外側へ向けたスペクタクルとして
描きました。

一方、本作品
「夢の底から来た男」の場合は、
ミクロなアプローチといえるでしょう。
「血まみれの手の男」という
「異物」(悪夢)が、
一人のサラリーマンの平凡な日常に
放り込まれます。
これによって精神と現実の
境界が狂っていく様子を、
内側へ向けたサスペンスとして
描きました。

カメラの引きと寄りの違いだけで、
「人間が信じている現実なんて、
ちょっとした異物で
簡単にひっくり返る脆いものだ」という
冷徹な視線(これこそが
彼のSFの骨格と考えられる!)は
まったく同じなのです。

半村良は生前、
「虚構を徹底的にリアルに書くことで、
読者が生きている現実のほうを
嘘っぽく思わせたい」というような
言葉を残しています。
戦車を戦国時代に走らせるのも、
悪夢で一人の男を追い詰めるのも、
目的は同じです。
読み手を「自分の足元も、
実は夢の底のように
不安定なのではないか」と
ゾッとさせるための
職人技だったのです。

スペクタクルSFの爽快感の裏に、
常にどこか「虚しさ」や「冷や汗が
流れるような恐怖」が漂う半村良作品を、
ぜひご賞味ください。

(2026.7.3)

〔「夢の底から来た男」角川文庫〕
夢の底から来た男
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