
「弟」は「私」にとってどのような存在であるか
「連笑」(色川武大)
(「百」)新潮文庫
(「百年文庫092 泪」)ポプラ社
弟は六歳下で、
その頃まだ小学校に
あがるかあがらないかだった。
けれども、私の行くところなら、
どこへでも
ついてくるように思えた。
私は、自分が心魅かれた物を、
残らず弟にひきあわせたかった。
なんでも弟と共有したかった…。
私小説のグラデーションのなかにある、
きわめて随筆に近い
小説とでもいえばいいのでしょうか、
捉えどころが難しい、
色川武大の「連笑」です。
交通事故に遭って入院中の
「弟」のもとへ、
兄である「私」が東京から駆けつけ、
「弟」のアパートの部屋に住み込み、
「弟」の見舞いを毎日続ける、という
筋書きなのですが、だからといって
「兄弟愛」が主題ではありません。
この特殊な「私」と「弟」との関係性、
つまり「弟」は「私」にとって
どのような存在であるかを
考えることが、本作品の
味わいどころにつながってきます。
〔主要登場人物〕
「私」
…語り手。文筆業で生計を立てている。
「弟」
…「私」の弟。
交通事故に遭い、入院した。
「父親」…「私」の父親。
「母親」…「私」の母親。
筋書きとしては、
事故で入院した「弟」のそばにいたという
「私」の行動や心情について
書かれてあるのですが、
むしろ兄である「私」が
「弟」を必要としていたようにしか
見えません。
根無し草のように生きている「私」は、
会社員としてまっとうな生き方
(世間一般から見た場合)をしている
「弟」を、なぜ必要としていたのか?
本作品の味わいどころ①
世界へつなぎ留めるアンカー
「私」は、世間一般の人間が
当たり前のように生活している
「世界」の重さや規律に耐えかね、
そこからはみ出して生きています。
作中ではそれを「列から離れて」
もしくは「埒から離れて」「放埒」と
表現されています。
いわゆる「根無し草」的存在なのです。
しかし同時に、
「世界」に挑みかかるような
「反社会的人間」でもなければ
「反逆者」でもありません。
ただ束縛を逃れて自由に振る舞いたいと
願っているだけなのです。
その「世界」から
完全に自由になるということは、同時に
「いつ社会から消えても誰も気づかない」
という底なしの孤立と不安と
隣り合わせとなります。
「世界」と距離をとろうとしながらも、
「私」は「世界」と
ゆるやかにつながっていたいのです。
無頼に生きる「私」にとって、まっとうに
会社員として生きている「弟」は、
「自分が辛うじてこの現実世界と
つながっているためのアンカー」として
機能していたのでしょう。
「弟」という「まっとうな現実の拠り所」が
この世界にがっしりと
存在してくれているからこそ、
「私」は安心して放埓でいられる。
「弟」の存在を通じて、
「私」は間接的に社会の手触りを
確認していたのだと考えられます。
本作品の味わいどころ②
自身の罪悪感への向き合う鏡
本作品は、ところどころに
幼い頃の回想が挿入されます。
かつて(少年時代)、
世界の規律に馴染めなかった「私」は、
その孤立感を埋めるために、
まだ幼く拒否権のない「弟」を
浅草などへ連れ回し、「放埒」という
自分の世界に巻き込みます。
つまり、「私」は「弟」の人生に介入し、
歪めてしまったという
強烈な自覚を持っているのです。
その「弟」が
まっとうに生きようとすればするほど、
それは「兄から受けた放埓の毒」と
戦っている姿に
見えたのかもしれません。
「弟」が事故で入院するという
危機において、
「私」がそばに付き添うのは、
単なる看病ではなく
(実際には看病もしていない)、
「自分がかつて「弟」に犯した過失」
もしくは「人生の歪み」の責任を、
いま一度自分の目で引き受け、
見届けるためであると
考えることができるのです。
「弟」のためというよりも
「私自身の欠落と
まともに向き合うための、
自己中心的な、しかし切実な必要性」
だったととらえるべきでしょう。
本作品の味わいどころ③
「律」の体現者への羨望と憧憬
「私」は社会のルール
「律」から逃げ出した人間ですが、
心の底では
「律」を完全に否定しきれていません。
むしろ、その摂理の強固さに
誰よりも怯え、惹かれてもいます。
「弟」は、「私」が捨て去った「律の世界」で、
まっとうに生きている存在です。
「私」にとって「弟」は、
自分が選び取れなかった
「あるべき正しい人生」の
体現者なのです。
「弟」を必要とするのは、
自分がドロップアウトした
「世界」の正しさを、「弟」という
最も身近な存在を通じて肯定し、
同時にその世界に対する
羨望やコンプレックスを
満たすためでもあったと考えられます。
さて、表題の「連笑」にも、
「私」と「弟」の関係性が
象徴されています。
一人が笑うと、
つられてもう一人も笑ってしまう、
あるいは二人の間でだけ通じる
奇妙なタイミングの笑い
(それがおそらく「連笑」と考えられる)。
これはコミュニケーションというより、
鏡に向かって笑っているような、
あるいは一つの地続きの肉体が
共鳴しているような、
いいようのない「不気味さ」と
不思議な「愛おしさ」を含んでいます。
「私」と「弟」、
二人の精神は個々に独立しておらず、
根底で融解し合っているとも
考えられるのです。
この作品は「兄弟愛」を描いた
単純なものではなく、
「他者になりきれない、
自分の一部のような存在としての
「弟」を抱えて生きる「私」の、
根源的な業や寂しさ」を描いた
作品ととらえるべきなのです。
本書「百」に収録されている
他の三篇はもとより、
いくつかの作品がこうした
「私」が主人公であり、
設定や登場人物が近似している作品が
あるのです。
それらも含めて、
色川武大の内省的な作品世界を、
ぜひご賞味ください。
(2026.7.20)
〔「百」新潮文庫〕
連笑
ぼくの猿、ぼくの猫
百
永日
〔関連記事:色川武大作品〕
「善人ハム」
〔「百年文庫092 泪」ポプラ社〕
おくま嘘唄 深沢七郎
洗骨 島尾ミホ
連笑 色川武大
〔色川武大の作品〕
色川武大の作品は
没後30年以上になる現在でも、
文庫本はかなり流通しています。
注目すべきは
講談社文芸文庫から出ている
「狂人日記」
「小さな部屋・明日泣く」でしょうか。
エッセイについてはこの数年で
いくつか新しく文庫化されています。
「私の旧約聖書」(中公文庫)、
「うらおもて人生録」(新潮文庫)などが
見つかります。
なお、私などは阿佐田哲也の
ペンネームの方がなじみがあります。
「麻雀放浪記」は
今でも出版され続けているようです。

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