
「超能力大戦」に陥らない本作品の魅力
「天才はつくられる」(眉村卓)
(「天才はつくられる」)角川文庫
図書室の新刊本の中に
紛れ込んでいた「学習教程」。
それは超能力習得のための
教科書であり、
それを読んだ史郎は
超能力に目覚めてしまう。
戸惑う史郎の前に、
天才グループと呼ばれる
超能力集団が現れる。
仲間入りを拒んだ史郎に…。
〔はじめに〕
眉村卓のSFジュヴナイルです。
昭和42年に雑誌「中一コース」に
連載された作品であり、
まさに中学生を対象とした、
ワクワク感あふれる
展開となっています。
超能力を得てしまった主人公の少年が、
超能力集団から狙われるのですが、
それが「超能力vs超能力」、つまり
「超能力大戦」に陥っていないところが
本作品の最大の魅力です。
〔主要登場人物〕
松山史郎
…中学生。図書委員。「学習教程」を読み、
超能力を習得してしまう。
天才グループと戦う。
橋本敬子
…中学生。図書委員。テニス部員。
史郎とともに天才グループと戦う。
坂村先生
…図書委員会担当教師。
史郎・敬子を支援する。
大須賀雄一
…史郎の住む地域の天才グループの
リーダー。
史郎を仲間に引き入れようとする。
井戸崎玲子
…天才グループの一員。
史郎・敬子の姿に心を動かされ、
グループを裏切る。
〔本作品の味わいどころについて〕
本作品の味わいどころ①
「傲慢さ」に陥らない少年少女
当時、日本は
高度経済成長期のただ中にあり、
受験競争の激化や
「エリートコース」といった言葉が
注目され始めた時代でした。
作中の「天才グループ」は、
単なる悪の組織というよりは、
冷徹で計算高く、社会の裏から
効率的にシステムを支配しようとする
「冷酷なエリート主義」の象徴として
描かれているように感じられます。
これに対し、超能力を得た主人公たちが
「自分たちも同じように
傲慢になってはいけない」
「社会のバランスを
崩さないように対抗する」という
抑制的な態度をとる点は、
当時の管理社会や学歴社会に対する、
眉村卓らしいアンチテーゼとして
読むことができます。
単なるジュヴナイルを越え、
社会派の視点を持った作品なのです。
さらに昭和40年代前半の
少年向け作品といえば、
特撮ヒーローやアニメのように
「超能力=無敵の武器」として
華々しく使うのが主流でした。
しかし眉村卓は、
「もし現実にこんな力を
持ってしまったら、
組織や社会からどう見られるか」
「普通の生活が
壊れてしまうのではないか」という
市民的な危機感を
子ども向け作品に持ち込んだのです。
しかも主人公たちだけで
突っ走っているのではありません。
理解ある親や教師、警察といった
「社会の常識的な大人たち」が
頼もしく描かれており、
これが作品全体の
「抑制されたトーン」を支える
見事なフレームワークに
なっているのです。
「大人たちがしっかり大人として
機能している」作品は、
珍しいといえます。
超能力を手に入れてなお、
「一人の市民として
どう振る舞うべきか」を
自然体で考えている主人公たちの姿。
そうした本作品の持つ
「知的な誠実さ」は、現代においてこそ
必要とされるはずです。
本作品の味わいどころ②
「正義」という独善さへの警戒
昭和40~50年代は
「超能力ブーム」の全盛期でした。
昭和49年(1974年)の
ユリ・ゲラー来日を筆頭に、
スプーン曲げや超能力少年、あるいは
「ノストラダムスの大予言」といった、
オカルトや超能力が社会現象として
世間を狂騒させていた時代です。
そのような時代にあって、
本作品が示した、
「超能力の使用を回避する」という態度は
ジュブナイルSFにおける
リアリズムの到達点と捉えることが
可能です。
当時のSF評論において、
眉村卓や星新一、小松左京といった
第一世代のSF作家たちは、
世間の「超能力ブーム」に対して
非常に冷ややかな、あるいは
客観的な視点を持っていたようです。
彼らにとってSFとは
「もしそんな力があったら、
現実の社会や人間の心理はどう動くか」
を論理的に突き詰める
シミュレーションだったからです。
「超能力を使うほど
精神や体力をすり減らす」
「まともな日常を破壊してしまう」
「周囲から異端視される」
「公平公正な社会でなくなってしまう」。
そうした「能力の代償」を
明確に描いたことで、
当時の子ども向け作品にありがちだった
「力への安易な憧れ」に
警鐘を鳴らしているものと
考えられます。
もし主人公たちが超能力を使って
「天才グループ」を打倒してしまえば、
それは主人公たち自身が
「自分は特別な人間だから
力を行使しても許される」という、
相手と同じエリート主義もしくは
選民思想に陥ることを意味します。
正義のために積極的に力を使うことすら
「エゴ」になり得ると見抜いていた
眉村の思想は、
読み手である少年少女に、
「大きな力には、大きな抑制(責任)が
必要である」という、
高度な道徳観を
提示しているように感じられます。
本作で、
主人公たちが能力の使用を抑え、
最終的には警察や新聞社を
頼ったことにも、
「子どもたちだけで超能力組織と
戦わせるような危険を
冒すべきではない」という
徹底したリアリズムが見えてきます。
「社会の枠組みの中で解決する」という
結末は、超能力ブームという
「非日常の熱狂」から、読み手を健全な
「日常の現実」へと帰還させる、
教育的にも非常に優れた着地であると
考えます。
超能力を「おどろおどろしい奇跡」や
「ヒーローの武器」としては描かず、
「日常を脅かす、
取り扱い注意の危険物」として
クールに描き切った眉村卓。
SF作家こそが誰よりも
「現実」を大事に考えているということの
証左となっています。
本作品の味わいどころ③
超能力以上!集団心理の恐怖
多くのSF作家が
「宇宙の知的生命体」や
「マッドサイエンティスト」を
敵に据えた時代に、眉村卓は一貫して
「組織そのものの不気味さ」を
敵として描きました。
本作品においても主人公を狙うのは、
「顔の見えない支配」を受けている
集団です。
「天才グループ」のメンバーは、
トップが誰かも分からず、
末端は恐怖だけで縛られ、
全体像を知らされないまま
駒として動かされているのです。
こうした「天才グループ」の恐ろしさは、
まさに現代のトクリュウの
「闇バイト」の若者が直面する構造と
同じです。
参加する若者たちは、
最初は「自分が高められる」
(=天才になれる)という
甘い言葉で誘われます。
しかし、一歩足を踏み入れると、
「見えない上位組織からの脅迫」によって
逃げ出せなくなるのです。
この「個人の恐怖感を利用して、
システムの末端の歯車にしてしまう
構造」を、眉村は本作品において
見事に視覚化しました。
外見はごく普通の少年少女なのに、
中身は冷酷な組織の命令に従うしかない
ロボットのようになっている不気味さは
現代の犯罪グループに加担してしまう
若者たちの空虚さと完全に重なります。
史郎たちが「超能力vs超能力」の戦いを
しなかった理由も
ここにあると考えます。
「天才グループ」と
同じ土俵に立つのではなく、
警察・学校・マスコミ・家族という
「まっとうに認知された
社会のシステム」に駆け込み、
大人たちを巻き込んで対抗したのです。
「顔の見えない不気味な組織」には、
「顔の見える健全な社会のつながり」で
対抗するしかない。
この倫理観と問題解決のプロセスこそが
現代の私たちがトクリュウなどの
見えない犯罪組織に対抗するために
必要な「社会的防犯」「連帯の網の目」
そのものであり、
本作品の持つ先見性の
最たる部分だといえます。
眉村卓という作家が、いかにリアルな
「人間と組織の力学」を見つめて
ペンを握っていたかが
改めて伝わってきます。
〔おわりに〕
本作品を「古い」といって
切り捨てるべきではありません。
「むしろ現代にこそ読まれるべき」
作品なのです。
本作品の持つリアリズムは、
半世紀以上の時を経て現代のリアル
(トクリュウ・見えない組織の恐怖・
SNS時代の同調圧力)と
激しく共鳴しています。
SF作家の書いた作品の、
真の価値が実感できるのは、
書かれてから半世紀以上が
経過した後なのかもしれません。
すでに絶版ですが、
古書や図書館探訪で、ご賞味ください。
(2026.7.31)
〔「天才はつくられる」角川文庫〕
天才はつくられる
ぼくは呼ばない
〔関連記事:眉村卓の作品〕
「なぞの転校生」(1967)
「侵された都市」(1967)
「まぼろしのペンフレンド」(1970)
「テスト」(1970)
「時間戦士」(1970)
「さすらいの終幕」(1970)
「ねらわれた学園」(1973)
「0からきた敵」(1973)
「ねじれた町」(1974)
「地獄の才能」(1975)
「閉ざされた時間割」(1977)
「少女」(1977)
「白い不等式」(1978)
「原っぱのリーダー」(1992)



〔角川文庫・眉村卓作品〕

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