「帰郷」(若杉鳥子)

「故郷=安息」という幻想の破壊

「帰郷」(若杉鳥子)
(「渡良瀬の風」)武蔵野書房
(「百年文庫085 紅」)ポプラ社

納屋を開けた。納屋の中には、
空っぽの古い米俵が
幾つも吊してあった。
その下に人を焼く
三個の竈が並んでいた。
これがこの街で一生を
終わるものの最後の場所だった。
私はここでは焼かれたくない。
多分ここでは果てないだろう…。

〔はじめに〕
女性プロレタリア文学の草分けとされる
若杉鳥子の代表的短篇作品です。
終末部分の一節を
粗筋代わりに掲げましたが、
「帰郷」という表題でありながら、
ノスタルジックな雰囲気は薄く、
むしろ故郷に対する嫌悪感が
感じられる作品となっています。

〔主要登場人物〕
柳逕子(みちこ)

…小料理屋「やなぎや」の養女。
 家出したが姉貴分であった小巻の
 葬儀に参列するため故郷に戻る。
柳小巻
…「やなぎや」の養女。
 「やなぎや」の跡を継ぐ。

〔本作品の味わいどころについて〕
この作品は単なる
「懐かしい故郷へのノスタルジー」を
描いたものではありません。
逕子の心には、郷愁などではなく、
むしろ「逃げ出した場所に
再び足を踏み入れる恐怖」に近いものが
存在しているのです。
そして彼女が目の当たりにする
「近代化から取り残された
地方の閉鎖性」や
「旧習がもたらす息苦しさ」への
強烈な違和感と嫌悪感こそが、
作品の通奏低音となっているのであり、
それこそが本作品の
味わいどころとなるのです。

本作品の味わいどころ①
女性を縛り付ける「旧習」の告発

逕子が二十年ぶりに戻った故郷は、
一見すると変わらない
自然や風景を残していますが、
その実態は「女性を抑圧する古い秩序」が
そのまま生き続ける場所として
描かれていると考えます。
姉貴分である芸奴・小巻の葬儀への
参列という設定自体が象徴的です。
「芸奴」とは
現代の芸能人やアイドルなどとは
根本的に異なります。
自らの意志に反して
「売られた」身分なのです。
小巻はそれでも「やなぎや」を
継がせてもらっているものの、
若くして亡くなっているところを見ると
その人生は決して幸せなものでは
なかったことが推察できます。

過酷な環境で消費され、
死んでいった女性の生涯と、
それを「そういうものだ」と受け入れる
地域の空気。鳥子は、
都会に出て自立した逕子の視点、
つまり「近代的な自我」を通して、
地方の共同体が持つ排他性や、
女性をモノのように扱う
前近代的な価値観への怒りと嫌悪を
さりげなく描写していると
考えられるのです。

本作品の味わいどころ②
「故郷を棄てた者」の孤独と悲哀

人は誰しも、都会の生活に疲れたとき、
「温かい故郷」を夢想しがちです。
しかし逕子にとっては
そうではないのです。
逕子にとって故郷は
「自分を芸奴として縛りつけた
場所」であり、
そこに「帰郷」することは、
過去の抑圧と
再会することを意味します。

逕子にあるのは
「もう自分には、無条件に
包み込んでくれる故郷など存在しない」
という痛切な認識なのです。
故郷への絶望感や嫌悪感を
目立たせることで、逆説的に
「私はこの古い土地の人間ではなく、
自分の足で都会を生きる人間なのだ」
という、近代的女性としての
確固たる自立の覚悟、
そしてその裏側にある「孤独」を
浮き彫りにしています。

本作品の味わいどころ③
同時代的な問題提起と社会批判

若杉鳥子はプロレタリア文学運動や、
初期の女性解放運動の潮流に
深く関わった作家です。
作品が書かれた
大正から昭和初期にかけて、
多くの地方出身の女性が
都会へ働きに出て、
新しい価値観を身につけました。
そうした女性たちが直面するのは、
「久しぶりに実家に帰ると、あまりの
男尊女卑や因習の深さに絶望する」
という経験であり、
現代とまったく異なるところのない
ものだったはずです。
そしてそうした感覚は、
当時の多くの新しい女性たちに共通する
リアルな痛みだったのです。
鳥子はこの作品を、
単なる個人の心理描写にとどめず、
社会構造の歪みが地方の女性たちに
どう写っているかという
「社会批判」として
差し出したと考えられるのです。

〔作者と作品〕
本作品は若杉鳥子の自伝的要素が
非常に強い小説です。
「故郷への強烈な嫌悪感」の正体は、
鳥子自身が実際に歩んできた
壮絶な生い立ちと、
そこからの「命がけの脱出」の記憶に
深く結びついています。

若杉鳥子は1892年、東京の豪商の庶子
(本妻ではない女性との間に生まれた
子ども)として生まれ、
すぐに茨城県古河町の芸者置屋の
養女として引き取られました。
花街という環境は、
少女だった鳥子にとって
「女性が男性に消費される場所」であり、
「家のために女性の自由や尊厳が
奪われる場所」そのものだったのです。
鳥子は早くからこの家業を
激しく嫌悪し、
自分の運命を呪ったといわれています。
本作品の中で、
二十年ぶりに戻った故郷(おそらくは
古河がモデル)に漂う排他性や、
女性を縛り付ける旧習への嫌悪感が、
これほどリアルに、
冷徹に描かれているのは、
鳥子自身がその息苦しさを
肌で知っていたからにほかなりません。

〔おわりに〕
なぜ逕子は
故郷への嫌悪感を抱きながら、
それでも小巻の葬儀への参列を
決意したのか?
その行為は、
「自分の過去を否定するのではなく、
引き受け直すための行為」と
考えることができます。
「過去の抑圧」
「社会的弱者としての経験」
「女性としての生存の困難」、
そうしたものを直視することこそが、
「女性の主体的な生の再構築」に
つながると考えていた
可能性があります。

若杉鳥子は、
「故郷=安息」という幻想を壊し、
故郷を「自分を傷つけた場所」として
描くことで、
「女性が自らの人生を取り戻す姿を
描こうとした」といえるのです。
そう考えると、本作品からは
力強く生きようとする気高い女性の
意志と姿が立ち上ってくるのです。
ぜひご賞味ください。

(2026.8.5)

〔「渡良瀬の風」武蔵野書房〕
お絹川
破りし柵
抱え
面がはり
毒酒の匂ひ
ある貧しき女の手紙
行方知れぬ人へ
烈日
黒い筺
市にいく隣人
少女と室壺
出帆
憐憫の要らない世界
南二番館さん
傷ついた笑
梁上の足
反抗の始め
草に埋もれた墓
坂の家
レモンの匂ひから
棄てる金
蛇の家
鬼面
小さい炎

夾竹桃の花
風の吹く街
夜の訪問
古鏡
峡江にて
彼女こゝに眠る
五月の悪戯
大樹の枝
麺麭か仕事か
二つの道
母親
老いた青年
デンマークの富籤
帰郷
桜の寄贈者
彼等の秋
叔父
 あとがき

〔「百年文庫085 紅」ポプラ社〕
帰郷 若杉鳥子
三十三の死 素木しづ
残醜点々 大田洋子

Jason ReidによるPixabayからの画像

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