
「境界」の中で揺らめいている
「高野聖」(泉鏡花)
(「歌行燈・高野聖」)新潮文庫
(「泉鏡花集成4」)ちくま文庫
地体並のものならば、
嬢様の手が触って
あの水を振舞われて、
今まで人間でいよう筈はない。
谷川から上って来さしった時、
手足も顔も人じゃから、
おらあ魂消た位。
お前様それでも感心に
志が堅固じゃから
助かったようなものよ…。
〔はじめに〕
泉鏡花の代表作「高野聖」です。
泉鏡花の作品には
妖怪変化の登場するものが
少なからずあるのですが、
本作品にも登場します。
「近づいてきた人間を動物に変化させる
妖艶な美女」がそれです。
しかし本作品は
「怪談」でも「ホラー」でもありません。
〔主要登場人物〕
※本作品は入れ子構造
(額縁部=現在)季節は冬
「私」
…語り手。若狭へ帰省する途中の
旅の若者。
上人
…宗朝という高名な僧。
旅の途中で「私」と同道する。
(本編部=回想)季節は夏
「私」
…語り手。20代の宗朝。
飛騨の山越え途中で、
奇怪な体験をする。
「女」
…山の中の一軒家に住む女。30歳前後。
元は医者の娘。不思議な治癒能力を
持っていたが今は…。
「亭主」
…言葉を話せない白痴の男。
元は「女」の患者だった。
「女」が「亭主」の家に滞在中、
洪水で周囲が全滅し、「女」は
そのまま「亭主」の家に住みついた。
「親仁」
…馬引きの親父。
元は「女」の実家の医者の使用人。
〔本作品の味わいどころについて〕
一読して気づくのは、「女」は男を
動物に変化させる能力があるとはいえ、
さほど悪い存在、
つまり「妖怪」には見えません。
悪意があるならあの手この手で
「私」をとどめ、
無理矢理にでも動物に変えさせてしまう
はずだからです。
それどころかかつては
不思議な治癒能力で村の人々の痛みを
取りのぞいていたというのですから、
「神仏」に近いものがあるのです。
強いていうなら「神仏」と「妖怪」の
境界に揺らめく存在でしょうか。
「女」だけでなく、「私」(宗朝)、
そして作品自体も、
「境界」の中で揺らめいているのです。
本作品の味わいどころ①
「今」と「昔」を行き来する作品構造
本作は以下のような
三重の時系列を持っています。
⑴現在(額縁部分):
「私」が若狭へ向かう列車の中で、
旅の僧と出会い、宿で相部屋になる。
旅の僧が「私」に向かって
若き日の奇妙な体験を語り始める。
⑵過去(一段目の入れ子):
「私」(若き僧)が飛騨の山越えで
災難に遭い、
山中の一軒家に宿を求める。
「女」の家での夜、異様な体験をする。
⑶さらに過去(二段目の入れ子):
「親仁」が語る、美しい「女」の正体や
過去の男たちの末路。
鏡花はなぜあえてこのような
複雑な構造を採用したのか?
怪談にあるように
「むかしむかし、ある山に
恐ろしい魔女が…」という三人称では、
読み手はどこか他人事として
読んでしまいます。
しかし、まず「現代の列車」
(明治の近代化の象徴)という
(当時の)読み手と同じ日常から開始し、
そこから徐々に
深山幽谷の闇へと誘うことで、
「もしかしたら、この現実世界の
すぐ裏側にあの異世界
があるのかもしれない」という
生々しいリアリティ、
つまり怪異への没入感を
生み出しているのです。
男が馬になる、
蛭が降ってくるといった
作中で描かれる怪異は、
あまりにも強烈でグロテスクです。
しかし、これが「旅僧が若き日を
振り返って語る思い出話」という
フィルター(緩衝材)を通すことで、
おどろおどろしさが抑えられ、
一枚の美しい絵巻物を眺めるような
「ロマンチックな文芸美」へと
昇華されるのです。
おそらく鏡花は、
怪異を「正面から描くと俗になる」と
考えていたのでしょう。
本作品においては
「現在の語り手(若い旅人)」
「過去の語り手(僧)」「親仁」という
二重のフィルターを通して
怪異が語られるのです。
本作品において怪異は
「直接光」ではなく「屈折光」でしか
見えないしくみとなっているのです。
本作品の味わいどころ②
「神仏」と「妖怪」の境界にある「女」
彼女はたしかに男たちを次々と
獣(馬や牛、蛙など)に変えてしまう
恐ろしい妖怪としての
側面を持っています。
しかし、いわゆる
「人間を破滅させるだけの邪悪な魔物」
とはまったく違います。
「私」を無理に
引き留めてはいないところからは、
彼女の「悪意のなさ」や「純粋さ」が
伝わってきます。
「女」は男たちを動物に変えるのですが、
それらを取って喰うわけではなく、
また単なる悪戯や殺戮でもありません。
「女」の行為は、彼らを
「本質に応じた姿」に変えているという
解釈もできるのです。
好色な男は馬に、卑しい男は蛙に、
人間の心の中にある醜さを
そのまま外見に引き出しているとも
考えられるのです。
そして「女」は、
獣に変えた「元・男」たちを世話し、
慈しんでもいるのです。
ここにあるのは、
善悪を超越した「大自然の母性」です。
自然は人間に恵みを与えもすれば、
牙を剥くこともあります。
彼女はその両面を併せ持つ、
神仏に近い存在もしくは
山の女神そのものとして
描かれていると考えられるのです。
本作品の味わいどころ③
「聖」と「性」との間で葛藤する「私」
額縁部分の、高僧として大成した
宗朝であればいざ知らず、
まだ徳の浅い、
煩悩だらけの若い「私」が、
なぜあの魔境から「動物化されずに」
生還できたのか?
「私」が生還できたのは、
私」が非の打ち所のない
高僧だったからではなく、むしろ
「未熟で、必死で、それでも
ギリギリのところで踏みとどまった
人間らしさ」を持っていたからだと
考えられます。
若き日の宗朝は、
美しい「女」に触れられれば
激しく動揺し、
「女」の妖艶な肉体に魅了され、
強烈な性的衝動(煩悩)を抱いています。
彼はその湧き上がる欲望を
「なかったこと」にするのではなく、
自分が未熟な僧であり、
煩悩にまみれているという事実を
自覚した上で、耐え忍び、
「女」の元を立ち去る決断をしたのです。
もし宗朝が、他の男たちのように
理性を失って彼女を貪ろうとしたら、
その瞬間に動物化されていたでしょう。
また、「女」にまったく心を
動かされなかったとしたら、
おそらくは「石仏」にでも
されていたのかもしれません。
己の未熟さと向き合い、
欲望に身を焦がしながらも、
なんとかして仏道にしがみつく
「泥臭い純粋さ」。
それこそが「人間」であり、
だからこそ「私」は「人間」の姿のままで
山を下りることができたのだと
考えられます。
〔おわりに〕
本作品「高野聖」の核心は、
こうした「どちらでもあって、
どちらでもない」という
「境界のゆらめき」
そのものにあるのでしょう。
「現在」と「過去」、
「神仏」と「魔性」、
「聖」と「俗」。
これらは、はっきりと
白黒つけられるものではなく、
グラデーションのように
つながっていて、
ふとした瞬間に反転してしまう
性質のものです。
鏡花はその「間」にある、
最も危うくて最も美しい一瞬を、
あの絢爛たる文章で
捉えようとしたのでしょう。
その境界の世界を、
ぜひご賞味ください。
(2026.8.12)
〔青空文庫〕
「高野聖」(泉鏡花)
〔「歌行燈・高野聖」新潮文庫〕
高野聖
女客
国貞えがく
売色鴨南蛮
歌行燈
〔「泉鏡花集成4」ちくま文庫〕
薬草取
女客
高野聖
妖僧記
伊勢之巻
悪獣篇
海異記
吉原新話
妖術
露肆
朱日記
〔こちらでも読めますが…〕
角川文庫にも収録されています。
まったく関係ない話ですが、
文豪ストレイドッグスの影響で、
泉鏡花は女性だと思い込んでいる
中学生が多く、
心配になる今日この頃です。

〔関連記事:泉鏡花作品〕
「活人形」
「天守物語」
「夜叉ヶ池」
「海神別荘」
「外科室」

〔「泉鏡花集成」ちくま文庫〕
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